月1原発映画祭の報告

2014年6月7日(土) 第26回月1原発映画祭/交流カフェの松村直登・藍原寛子対談動画

2014年6月7日(土)に開催した、第26回月1原発映画祭/交流カフェの松村直登・藍原寛子対談の動画を公開しました。

YouTubeへのリンク

こちらの動画は、今回のゲストの松村直登さんを主人公として描かれた「原発20キロ圏内に生きる男」の上映を行った後に行われた、松村直登さんと藍原寛子さんの対談の様子です。

※松村さんの名前を「村松さん」と何度か言いまちがえました。
ごめんなさい!!(藍原寛子)

2014年4月5日(土) 第24回月1原発映画祭+交流カフェの報告

第24回月1原発映画祭では、騎西高校に避難した双葉町民のドキュメンタリー映画「原発の町を追われて 避難民・双葉町の記録」を上映するとともに、同映画監督の堀切さとみさんをお招きしてお話をお伺いしました。

堀切さんが夜の部だけでなく昼の部にもお越しくださったので、昼のほうでもも上映後トークと質問タイムをお願いすることができました。
旧騎西高校避難所の最初の1年を記録した正編、県内避難の町民と騎西高校避難の町民の分断・対立があらわになっていく続編を観て、さらに堀切さんのお話をうかがうと、年を追って問題が深刻に複雑になっていくことがよくわかります。
堀切さんは、さいたま市で学校給食調理の仕事をされながら、避難所に通いつづけてこの映画を制作されました。
一市民の目で取材・撮影し、率直な言葉で語る堀切さんの姿勢に共感した方が多かったようでした。

堀切さとみさんのお話

みなさま、こんばんは。本日はお集まりいただきありがとうございます。堀切さとみと申します。埼玉県さいたま市からまいりました。わたしは給食の調理士として小学校で働いています。
震災があり、原発事故から一週間くらいたった2011年3月下旬に、南相馬、大熊、双葉、富岡、浪江といった福島県浜通りからたくさんの人びとがさいたまスーパーアリーナに避難してきました。放射能のことを考えると、自分自身このまま埼玉にいていいのかという不安がありました。そこへ浜通りのかたがたが避難なされてきたので、彼らと出会って話を聞きたい、この大変さを共有したいという強い思いがこみあげてきました。炊き出しのボランティア以上に自分になにができるかと考えてみると、とにかくもっと人々の話を聞きたいと思ったこと、そして、以前からドキュメントリー映画が好きで、2008年に市民メディアセンターというところで映像を学んでいましたので、記録として残すことはできないだろうかと思いました。これが「原発の町を追われて 避難民・双葉町の記録」を撮影することになったきっかけです。

本編には双葉町の人びとが騎西高校で生活する様子が記録されています。騎西高校の避難所が閉鎖されるまでの2年9か月、みなさん教室にたたみを敷いて和室をつくり、その部屋を段ボール等で区分けして複数の世帯が共同で生活していました。騎西高校はあくまでも一時避難所としての機能です。プライバシーがありません。お風呂も学校内にないので、銭湯にかよいます。食事は朝昼晩の3食ともお弁当が配られました。ふつうのコンビニで売られているようなお弁当です。学校設備として給食調理室がありましたが、埼玉県が避難している人に対して校内での火器使用の許可を最後までださなかったため、自分たちで調理をして食事をとるということができませんでした。お弁当ではカロリーが高すぎたり、栄養がかたよってしまうと考える人、逆に、高校に長居するつもりはないからお弁当でよいという人や、食事を自分たちでつくることになれば、当番を決めたりするのにもめるだろうと考える人もいて、それぞれの受け止め方がありましたが、やはり食事をつくることができないというのが一番苦しいと訴えていました。

騎西高校には毎日たくさんのボランティアの方々、慰問の方々がおとずれて、イベントが開かれ、食べ物が配られていました。ご高齢のみなさんは双葉町にいたころ、農作業をしたり、手仕事をしたりして、毎日暮らしにちからがあったといいます。しかし騎西高校に避難していると、毎日何もすることがなく、張り合いのない長い一日となっているとおっしゃっていました。朝起きて、お弁当を取りに行き、食事をして、洗濯物をとりにいったらそのあと何もすることがないという暮らしです。「ここには自分の暮らしはない」とおっしゃられている方もいました。こんななか、校舎の一室で書道教室をひらいた書家の方もいらっしゃいます。老若男女がこの小さな学び舎につどいました。近くの借り上げ住宅に移られたご高齢のかたがたは、車で迎えにきてもらわないと騎西高校のサロン(談話室を兼ねたカフェ)に出かけていくことができない状態です。

若い方々、働き盛りの方々は毎日埼玉で仕事を探しておられました。わたしは埼玉県民ですが、埼玉で仕事を見つけるのは、わたしたちでも難しいのです。仕事がなければ生活はどうする?お金はどうする?というふうになり、埼玉ではなかなか仕事が見つからないので、福島県にもどり、隣接したいわき市に居住して、そこから原発内の工事や除染の仕事をするという人々が多くなっていました。原発のために忠実に何十年も働いてきたのは地元の人間です。事故が起こって遠くの知らない土地へ避難しても、仕事を探して福島に帰り、戻っても仕事がないので、再び原発関連の仕事をするしかないというのが今の現実です。これまで原発で働いて、さんざん被ばくしてきているのだから、今さらそれほど考えなくてもよいという人がいます。以前、被ばくというのは原発内の仕事でごく限られたところでだけおこったことでした。事故後の福島では一般の住民を巻き込んだ生活領域全般で被ばくが起こっています。この点が事故後大きく違ってきているところです。福島に帰り、とりあえず原発の仕事がある。とりあえずはなんとかなる、しかし、これで終わってしまいます。原発とともに生きてきた双葉町民はこれだけの事故があってもなお、原発とは切っても切れない関係であるということころがとてもせつなくひびいてきます。

また、外部からは「精神的慰謝料」として東電から月々お金をもらっているのだから、別に働かなくてもいいじゃないかという意見もでています。しかしこれも単にお金があれば働かなくてもいいという問題ではありません。仕事やいきがい、つまり人間が生きいていくうえでの原動力となる部分がとりあげられている状態です。これまでなんらかの仕事をしてきた人々にとっては、精神的にかなりきつい状況であると思います。

双葉町にかぎらず、原発のある町の人びとは、原発が事故をおこしたとしてもなかなか原発に反対することができないのではないか、反対しにくいのではないかと思います。
福島原発の事故後、加須市に双葉町民のみなさんがいらしたとき、とても遠慮がちにくらしておいででした。加須が自分たちの地元ではないということでそうであったのかもしれませんが、ひかえめに、お世話になりますという感じでした。
たとえば双葉町にいたときには町民が東電からいろんな名目で手当をもらっていたという事実があります。福島のなかで原発についてなにも恩恵をうけてこなかった自治体も放射能汚染地帯となったため、双葉町民にはなおさら「自分たちは長年東電からお金をもらってきて、恩恵もあったのだから、このような事故にあってもなにもいえないのではないか。自業自得ではないのか。なにも言ってはいけないのではないか。」という引け目やジレンマがあるように感じました。わたし自身は彼らの姿を見て、復興のためになんとか声をあげてほしいと思っています。映画を撮ることにより、人々の感情の変化を感じました。

事故後3年がたち、風化が進んでいます。しかし、震災・原発事故の大変さは3年たってからというそうです。実際、仮設住宅でも自殺する人や孤独死が増えています。原発がもたらすものはなんなのかということです。本日は上映していただき、たくさんのかたがたにご覧いただけたことに感謝いたします。ありがとうございました。

2014年5月10日(土) 第25回月1原発映画祭+交流カフェの報告

5/10に第25回月1原発映画祭が終了しました。
「YouTubeの原発関連動画をみんなで観よう」
という安直な企画にもかかわらず、
台湾ビーフンの魅力か、会場はほぼ満杯になりました。
会の進行も、2回に分けたビーフンの炒めに合わせて微調整、
美味しい!と大好評でした。
美観(ビーチン)さん、ごちそうさまでした!

上映した動画は以下の通りです。
未見の方はぜひご覧になってみてください。

★沢田研二「一握り人の罪」(7分)
http://www.youtube.com/watch?v=bUw7BLeUChU

2014年3月に発表された、原発批判の新曲。

★台湾の反原発のテーマソング「子どもの大空」(孩子的天空)(5分)
http://www.youtube.com/watch?v=-xZYuYQnyC8

原発監視ママ連盟(媽媽監督核電廠聯盟)の依頼で作られ、
多くの有名歌手たちがレコーディングに参加。

★ドイツZDF「フクシマの嘘 其の参」(43分)
https://www.youtube.com/watch?v=-VrJ4DlwyEk

ドイツ国営テレビ放送ZDF制作のその1、その2に
新たな取材を追加して1本にまとめたもの。

★「abita」(4分)
http://vimeo.com/51297975
ドイツ在住のShoko Haraさんのアニメーション。
放射能のため外で遊ぶことができない福島の子どもたちの夢と現実を描く。

★シリーズ 原発フェンスを歩く(全16回、各7〜8分、最終回13分)
http://news.tbs.co.jp/newsi_sp/fence/
キャスターが原発を囲むフェンスに沿って歩き、
地元の人の声をひろうTBSニュースバードの番組。
全16か所の中から、再稼働に向けて最優先審査中の鹿児島県の川内原発(Vol.1)と、
茨城県の東海第二原発(Vol.14)・・・これは参加者の中に
IWJ茨城中継市民として活動する方がいらしたので上映し、
今年4/27に東海村・豊岡海岸で実施された東海第2原発バルーンプロジェクト
のことなど話していただきました。
http://tokaihairo.jimdo.com/

★原発20キロ圏内に生きる男(18分)
https://www.youtube.com/watch?v=llM9MIM_9U4

立ち入り禁止の警戒区域にひとり残り、
町に取り残された動物たちの世話をしている、
双葉郡富岡町の松村直登さんを紹介。
これは次回予告としてアタマのほうのみ上映しました。

会の最後に、陳威志(ダン・ウィジ)さんに
台湾第4原発の建設凍結の真相をききました。
反対の声を押さえるために建設をいったん保留にし、
いずれ頃合いをみて「建設中止」を問う国民投票に持ち込み、
「国民の賛意が得られなかった」として建設を再開する、
というのが政府の腹づもりとのこと。
やっぱりね・・・という感じです。
(台湾の国民投票法のからくりについては、
第19回月1原発映画祭の報告をご参照ください
http://www.jtgt.info/?q=node/397

さて、次回はゲストに「原発20キロ圏内に生きる男」の松村さんと、
福島在住のジャーナリストの藍原寛子さん(昨年3月の回のゲスト)
をお招きして対談していただきます。ご期待ください。

第1部 上映と対談
18:00〜19:30(参加費500円、定員30名)
・上映
「原発20キロ圏内に生きる男」
https://www.youtube.com/watch?v=llM9MIM_9U4
「原発20キロ圏内に生きる男 続編」
https://www.youtube.com/watch?v=NIhUP1RqaNU
など予定。
・ゲスト対談:松村直登さん・藍原寛子さん

第2部 交流カフェ
19:45〜21:00(参加費500円・軽食+1ドリンク付き、定員20名)

詳細、申込みフォームは追ってご案内いたしますので、
今しばらくお待ちください。
どうぞよろしくお願いいたします。

2014年3月1日(土) 第23回月1原発映画祭/交流カフェ 菊池京子さん「県民健康管理調査と甲状腺検査 これまで、そして今、こんなことが起こっています」の報告

「県民健康管理調査と甲状腺検査 これまで、そして今、こんなことが起こっています」

お話:菊池京子さん(フリーライター)


こんばんは。菊池京子と申します。わたしは福祉関連、特に介護の分野でのライターをしております。出身が福島県いわき市で、高校卒業まで暮らしました。現在家族もいわきに住んでおります。福島原発事故はまさに自分と自分の家族に起きた大きな出来事となりました。事故当初、わたしの家族は東京都北区に避難し、その後、都内の都営住宅で10か月の避難生活をしたあといわきに戻りました。長年東京に住んでいる自分といたしましては、福島と東京の橋渡しができるといいなあという思いで活動してきました。本日は福島県の県民健康管理調査(2014年から名称が変更となり国民健康調査となりました)と甲状腺検査についてお話させていただきます。

1.県民健康調査とはなにか

この調査は、県民の被ばく線量評価と健康調査を目的としたものです。福島県民約200万人を対象に、2011年6月末から開始されました。福島県が福島県立医大に委託したもので、5つの内容から成り立っています。

1) 基本調査
2) 甲状腺検査
3) 健康診査
4) 心の健康と生活習慣に関する検査
5) 妊婦に関する調査

基本調査は、問診表が福島県から県民ひとりにつき1通郵送されてきます。5人家族であれば一家に5通届きます。0歳からご高齢の方々まで、すべての県民にこの問診表が送付され、原発事故発生当時から2011年7月までの行動を記録させて、外部被ばく線量を推定するものです。たとえば事故当時はどこにいたか、どのように避難したか。道筋、交通手段、屋外にいた時間、屋内にいた時間、車内にいた時間、宿泊や滞在した場所等々細かく記載していくことになります。自宅待機を強いられていた時期、学校へ通うようになった時期についても、屋内にいた時間や屋外にいた時間をはじめとして、1日1日の行動を時間単位で記載します。調査回収率をみると、記載事項が多く煩雑になってしまうということから、2013年9月末で県平均25%となっています。

甲状腺検査は2011年10月初旬から開始されました。対象者となったのは事故発生当時18歳以下であった子供たち約36万人です。そのうち検査を受けた人は対象者の約63%にあたる22万6千人。検査は3年がかりで県内を一巡しました。
エコー検査が基本で、判定により二次検査へと進み、必要によっては甲状腺に針を刺して組織を抽出する穿刺細胞診がなされます。
ここで「悪性腫瘍、あるいは悪性の疑い」と診断された場合は「要手術」となります。結果判定は4つに分類されています。

判定 結果 対応
A1 結節や嚢胞を認めなかった 平成26年度以降の2巡検査まで経過観察、待機
A2 6.0mm以下の結節や20.0mm以下の嚢胞がある 状態によって2次検査へ
B 6.1mm以上の結節や20.1mm以上の嚢胞を認める 2次検査へ
C 甲状腺の状態から判断して、直ちに2次検査を要するもの 2次検査へ

2014年3月1日(土) 第23回月1原発映画祭/交流カフェ 権上かおるさん「福島・除染現場の現実」の報告

2014年3月1日、地域から未来をつくる・ひがし広場 第23回月1原発映画祭は、福島・除染現場の現実について権上かおるさん(環境カウンセラー)、県民健康管理調査と甲状腺検査について菊池京子さん(フリーライター)のお二人をお迎えして、現在福島では何がおこっているのかをテーマとしてお話をお伺いしました。

今回は、この報告会での権上かおるさんのお話を掲載します。菊池京子さんのお話は後日掲載予定です。


「福島・除染現場の現実」

お話:権上かおるさん(環境カウンセラー)

本報告のPDF版

こんばんは。権上かおると申します。材料分析や専門書の出版を職業としています。並行して長年、環境NGO酸性雨調査研究会で大気汚染や酸性雨を中心とした環境調査活動を行っています。このような経験から、原発事故以来「おそれて、こわがらず、放射能に立ち向かって暮らす」という情報発信をはじめ、生活者と科学者の橋渡しになることができればと活動してまいりました。また、福島の除染現場に立ち会う機会も多くなりました。最近では福島原発から流れ出す汚染水のニュースに隠れ、除染に関する報道は少なくなっています。本日は現在福島で行われている除染について、実態と問題点をお話させていただきます。

1. 除染とはなにか?

今回の事故がなければ 「除染」という言葉を耳にすることはなかったという方々が多いのではないでしょうか。除染とはなにか。環境省は次のように定義づけています。

「除染とは、生活する空間において受ける放射能の量を減らすために、放射性物質を取り除いたり、土で覆ったりすること」

環境省 除染情報サイトより「除染進捗マップ」

除染の対象となるのは地図で色がついている地域です。放射性物質汚染対処特措法に基づいて定められています。福島県のみならず、岩手県、宮城県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県および千葉県下の市町村にわたっているのがお分かりになると思います。除染について、管轄官庁の主体は環境省になっています。
まず、放射線量により、1)除染特別地域(楢葉町、富岡町、大熊町など11市町村)と、2)汚染状況重点調査地域に分かれます。2)に該当する地域は福島県内の福島市、郡山市をはじめとして1)以外のすべての地域が入ります。中央の円のなかには、環境省が目指す除染目標が描かれています。環境省は線量によって地域分けをし、それぞれの地域ごとに目標を置いています。では福島第一原発から 20-30km 圏内、居住者がいる地域での除染はどうなっているのかを具体的にみていくことにしましょう。

Jan. 11, 2014 11th anti nuclear power film festival - Keiko Kochiya talk

日本語版はこちら

On January 11th, as the new year, 2014 started, Higashi Hiroba which sets a goal to construct our future through community activities, held the 21th ANP (Anti Nuclear Power) film festival. In this January meeting, we had a special guest, Ms. KOCHIYA Keiko, the woodblock artist/painter, who introduced her Karuta, the traditional Japanese style card game, featuring the theme of ANP.
Here is her excerpt:

Hello everyone, my name is Kochiya Keiko. Thank you for coming today in such a cold weather. I am a woodblock artist. I usually work with carving and printing. Occasionally, I work to create picture book when I find something that particularly interests me in day-to-day events.

When the news of 9-11 broke, I thought it was going to be a war somewhere, in fact anywhere anytime. As an artist with creative mind, I strongly felt that there must be something I could do against this kind of act. I asked my artist friends to work together, and began working to have an “exhibit for No War” with them. I thought that the unspecific, abstract expressions, often adopted in such exhibits, would only leave viewers with the impression in great ambiguity. This time, I decided to make anti-war statement in much more accurate and specific terms and with this determination in mind, I started drawing pictures. The exhibit was a success and had become an annual event. We counted 8 times of this “exhibit for No War” before the 3-11 disaster happened.

Reading the news of 3-11 on the newspapers, I came to realize the scare of radiation and radioactive contamination the NPP accident spreads as the imminent threats to our environment. Further, as it became apparent that the process of news carefully being filtered and tailored, I had a feeling that this manipulation is in larger scale than we might think, involving the whole society.

Gradually the overwhelming anger and sense of betrayal inside of me took the form into phrases and pictures and I had produced a set of card game, in traditional Karuta format.

Here is an example:
Yu: Yuchishita Genpatsu Kuruzo Okkane
(Yu-for the syllabic letter Yu- : The NPP we invited is now coming; does it bring a scare or a lot of money?)

This is a pun, a play on words. NPP launch has double sides to the nearby communities, dividing their residents into two groups: On this card, I draw the picture of two different types of people. Those who welcome NPP and are pleased with the big money in their hands vs. those who are shaking out of radiation scare.

【中国語版】月一核電電影節 ──《貢寮你好嗎?》上映會暨交流咖啡記錄

[日本語版の報告はこちら]

翻譯:陳威志

「從地方創造未來・東區廣場」(地域から未来をつくる・ひがし広場)所舉辦的「月一核電專題電影節」,在2013年11月2日這一天邁向了第19回。8月時,我們曾放映台灣的紀錄片《貢寮你好嗎》,這一次將再次放映。

影片名稱:《貢寮你好嗎》

導演:崔愫欣
2004年發行 台灣綠色公民行動聯盟出版

本次邀請陳威志(Tan,Uichi)先生擔任與談人。陳先生目前就讀於一橋大學社會學博士班課程,在2005年到2008年間,服務於台灣的環保團體「綠色公民行動聯盟」,曾與當時綠盟的副祕書長,也就是《貢寮你好嗎》的崔愫欣導演,造訪祝島、廣島、北九州等地進行放映暨交流座談。

此次的放映會共有23人觀影,其中有18人留下來參加會後的交流咖啡,而陳威志的妻子呂美親,與8月放映會的與談人李怡修同學也出席了本次交流會。比起上次的討論,這次的觀眾發言更加踴躍且熱烈,由此可看出日本民眾對於台灣議題的關心程度。

以下,擷取部分內容刊載如下。建議閱讀時可對照劇情介紹,以及上一次交流咖啡記錄(http://www.jtgt.info/?q=node/387)。

交流咖啡

陳威志:在談論台灣核四問題前,我想先談一談戰後台灣的歷史背景,因為既有的社會分歧與政治對立,對於反核運動的開展有很大的影響。

以下我想先從族群與政治體制切入。

2013年11月2日(土) 第19回月1原発映画祭「こんにちは貢寮(コンリャオ)」アンコール上映会+交流カフェのご報告

[中国語版の報告はこちら]

11月2日、地域から未来をつくる・ひがし広場 月1原発映画祭は第19回を迎えました。今回は8月に上映した台湾のドキュメンタリー映画、「こんにちは貢寮」のアンコール上映です。

こんにちは貢寮

原題 「貢寮你好嗎?」 崔 愫欣(チェ・スーシン)監督作品 2004年 台湾緑色公民行動連盟

ゲスト・スピーカーに陳威志(ダン・ウィジ)さんをお招きしました。陳さんは現在一橋大学大学院博士課程で社会学を専攻されています。2005年から2008年まで、第4原発反対に取り組む台湾緑化公民行動連盟に勤務し、映画上映会のため崔愫欣(チェ・スーシン)監督とともに祝島、広島、北九州などを訪問された経験をお持ちです。
また、前回の上映会でゲスト・スピーカーをつとめた、一橋大学大学院法学研究科博士課程の李怡修(リー・イシュウ)さん、陳さんのパートナーである一橋大学大学院言語社会学研究科博士課程の呂美親(リー・ビーチン)さんもご出席くださり、それぞれにお話をうかがうことができました。
映画上映に23人、交流カフェに18人のご参加をいただきました。

今回の交流カフェでは、前回にも増して活発な質問や意見が参加者のみなさんから出され、関心の強さがうかがえました。映画の概略、前回の交流カフェリポートをあわせてご一読いただくことをおすすめします。(前回のレポートはこちらから

こんにちは貢寮

交流カフェ (参加者18人)

陳威志(ダン・ウィジ)さんのお話:
第4原発をめぐる動きとして、歴史的な経緯をお話します。歴史に絡む社会的分断や亀裂は、やはり第4原発反対運動の展開に大きく影響しているからです。

まず台湾の民族・エスニックと政治体制について目を向けてみましょう。
第二次世界大戦終結後、中国大陸では2つの党、中国共産党と中国国民党の間で内戦があり、1949年、敗れた中国国民党は党首である蒋介石とともに大陸から台湾へやってきました。このとき大陸からやってきた人々を外省人(がいしょうじん)と呼び、もともと台湾に住んでいた人々を本省人(ほんしょうじん)と呼びます。外省人は大陸の北京語を話すのに対し、本省人は台湾の現地語(台湾語、客家語、先住民族の原語)で話すとか、生活レベルをみると一般的に外省人は国の手厚い支援で、わりと安定した生活を送り、政治的に支配する側にいる場合が多いといったような現象がみられましたが、この分断は民主化・経済成長の進展とともに状況が変化し、現在では以前のようなはっきりとした区分はできにくいところまできました。

2013年8月3日(土) 第16回月1原発映画祭 「こんにちは貢寮(コンリャオ)」上映会+交流カフェのご報告

[中国語版の報告はこちら]

地域から未来をつくる・ひがし広場 月一原発映画祭は8月3日の上映会で16回目を迎えました。真夏日のなか昼の部・夜の部ともにたくさんのご参加をいただきました。

こんにちは貢寮

原題 「貢寮你好嗎?」 崔 愫欣(チェ・スーシン)監督作品 2004年 台湾緑色公民行動連盟

貢寮(こんりゃお)は台北から北東にある風光明媚な港町。多くの人々が漁業・養殖業をはじめとする第一次産業により生計をたてています。
台湾の原子力発電所に関する資料をひも解いてみると、1970年代に第1から第3原発まで、それぞれ台北市、高雄市の近郊に建てられているのがわかります。第1および第2原発は福島第1原発1 – 6号機と同型。第3原発は加圧水型原子炉。そして第4原発も福島第1原発の7,8号機と同型であり、アメリカが設計して日本により製造されたものです。台湾の電力会社、「台湾電力」は国営であり、国によって原子力発電所が起工・建設され、いずれも経済発展という国策のもとに稼働してきました。
台湾の歴史には、1949年から1987年までの38年に及ぶ長い戒厳令体制があります。第1原発から第3原発はまさにこの時代につくりあげられたもの。
貢寮が第4原子力発電所予定地となったのは1980年。1982年、原発用地が強制収容され、居住していた230戸が強制転居。

1988年台湾電力は貢寮住民への電力説明会を開きました。住民が原子力発電所設立に反対を示したにもかかわらず、翌日の新聞では「住民側が同意した」という報道がなされました。激怒した住民はこれを機に「監寮反核自救会」を結成。
自救会による貢寮でのはじめてのデモ行進が行われました。戒厳令解除後、このデモは民衆を社会的にめざめさせるきっかけとなっています。その後、台北でも慣例となり、毎年1万人規模のデモが行われました。

首相が第4原発建設宣言を行った1991年、「こんにちは貢寮」のテーマともなっている事件がおきました。10月3日、デモの中で住民と警官との衝突が発生。混乱の中で住民は警察に包囲されました。自救会のメンバーで車に乗っていた人たちがおり、彼らの車も警察に囲まれました。火花が散り、緊迫した状況のなかで車はフェンスをつきぬけ、それを追う警察の車でカーチェイスさながらの様相となり、急カーブした住民の車は電柱に衝突して横転。このとき警官1名が横転した車の下敷きになって死亡するという事故がおきたのです。

車を運転していたのが林順源さん。彼はその場で逮捕され、警官を死亡させたため無期懲役の刑が確定。花連刑務所に入ることとなります。10.3事件を知った崔監督は、刑務所にいる林順源さん(以下 源さん)に手紙を書き続け、自救会の活動のこと、原発のことを伝え続けてきました。
当時車に同席していた自救会メンバーは、それぞれに映画のなかでこう述べています。
「警官の車に追いかけられたとき、戒厳令下での白色テロ(為政者による拷問など激しい政治弾圧)の恐怖がわたしたちをおそいました。偶然のアクシデントが計画的犯行とみなされてしまった。わざとやったのではありません。あまりにもひどい判決であると思います。」
住民は反原発とともに源さんの釈放も訴え続けますが、どこからかわからないような脅迫電話がかかってきたり、余計なことをいわないようにという圧力を受けたと証言しています。
事件当時、源さんは兵役をおえたあと漁業で身をたてようと貢寮へやってきた若い青年でした。貢寮の住民にとっては外からやってきた人ですが、深い交流が始まりおたがいが支えあう同志となっていきました。1994年の貢寮住民投票では96%が建設に反対の票を入れています。

1999年立法院は第4原発の建設にともない、貢寮住民の漁業権をはく奪するという決定をしました。交換条件として補償の話をもちだしましたが、住民は自分たちだけでなく子供たち孫たちの未来までとりあげたと激しく反発。
また住民は環境問題という点から、工事による地形・海底の変化、廃土のため地形がかわり川が変形して洪水の危険性があること調査会を通して台北県へ陳情。原発建設敷地内j見つかった原住民の古代遺跡や美しい海岸線の保護をまとめ、監察院へも陳情します。しかし監察院には建設を中止させるだけの権限がなく、台湾電力に対して是正案を求めるだけに終わりました。

1999年9月21日、台湾中央部にある南投県で大きな地震がおこります。もし原発が点在している台湾東北部でこのような地震が起こったらどうなるのかとの思いを抱え、住民は原発の監視を続けます。第4原発はアメリカによって図面がひかれ、日本によって建設工事がおこなわれるという「輸出された原発」。国と国との間に生ずる莫大な利益への圧力があります。海上輸送された日本からの原発部品が到着すると、住民は星条旗や日の丸を燃やして抗議しました。原発を推進してきた国民党が半世紀以上も政権を維持していた当時、住民は政権交代によって政策がかわれば建設も中止されるとの期待を持っていました。

2000年、総統選で反原発を掲げてきた民進党候補者が選出され、国民党が初めて政権を失いました。これにより第4原発建設工事は進捗率35%未満にて中止となりました。朗報もつかの間、その後、建設に対する民進党のあいまいな態度、住民という当事者不在ですすめられる会議、そして現在の不景気の要因はすべて建設中止にあると騒ぎ立てるマスコミにより翻弄される日々が続きます。第4原発建設を政治の道具としないでほしい。台北市でも非核国家、安全な生活環境をスローガンに市民団体による大規模なデモがおこなわれました。
憲法解釈法廷は、第4原発の建設中止について、「建設中止の決定は重要な政策変更であったにもかかわらず、十分な質疑が立法院でなされなかった。一方的な宣言や決定には瑕疵があった。」と判断。これにより国会で臨時議会が開かれ、2001年1月29日134票のうち賛成70票で第4原発建設の続行が可決されました。

映画の中では、一時的に外泊が認められた源さんが貢寮へ戻ってくるシーンもでてきます。
2002年10年以上も刑務所のなかで過ごした源さんが貢寮のみなさんと再会するシーン。だれもが家族のように彼を迎えています。過酷な長い時期を経てもなお源さんの顔にはほほえみがありました。時が流れ20年を超える第4原発反対運動のなかで、幾人もの方々がご高齢によりお亡くなりになられています。

約1時間半に及ぶ映画の中には住民たちのたくましさとともにこまやかな感情がちりばめられています。源さんへの手紙を通して崔監督がとらえた台湾。監督自らのナレーションにより広がる映像。
どうして原発をつくらなくてはならないのかという原点ともいえる問い。
この映画は現在を生きる人々への強いメッセージであるとともに、反原発に関わりながらお亡くなりになられた住民への静かな追悼でもあります。


交流カフェ

当初ゲストに陳威志(ダン・ウィジ)さんをお招きする予定でした。陳さんは現在一橋大学大学院博士課程で社会学を専攻されています。2005年から2008年まで第4原発反対に取り組む台湾緑色公民行動連盟に勤務し、映画上映会のため崔愫欣(チェ・スーシン)監督とともに祝島、広島、北九州などを訪問された経験をお持ちです。
しかし、7月22日、陳さんの弟さんである、陳炯霖(ダン・ギンリン)さんが、海の事故により、30歳という若さでご逝去なされました。台湾の反原発運動と日本の反原発運動を結ぶ、とても重要な役割を担っておられたそうです。
ご冥福をこころよりお祈りいたします。
このため陳さんは急遽帰国され、8/3のご出席はかなわなくなりました。
陳さんの後輩にあたる、李怡修(リー・イシュウ)さんが夜の部交流カフェに参加することをご快諾くださいました。李さんは一橋大学大学院法学研究科博士課程在籍中でいらっしゃいます。
昼の部、夜の部ともに映画をみた感想や意見の交換が活発になされた交流カフェでした。みなさんの主だったお話をご紹介します。こちらからあらかじめコメントをお願いしていた方のみお名前を表記いたしました。

昼の部 (参加者27名)

三宅清子さん:
わたしは1970年代台湾に住んでおりましたので、戒厳令というものがどういうものであるか身をもって体験しています。デモをするというのはまったく不可能であり、たとえば読書会のように小さな集会をもっても反体制ということで、投獄され拷問を受けるという世の中でした。このため政治犯があまりにも多かったのです。わたしはアムネスティにこの事実について報告し、無実である政治犯の釈放運動をしていました。映画のなかで戒厳令解除後のデモを観ました。第1原発から第3原発は戒厳令下でつくられたので、国民はなにかものをいうということはありえなかったと思います。現在でも台湾のマスコミは政治的にコントロールされているので、国民の声が反映されているとは言い難いところです。今日は映画をみて、原発が日本から輸出されていくことのむごさを感じました。

参加者:
日本は原発をどんどん輸出しようとしています。日本では、原発に事故があったとき、電力会社は責任をとることになっていますが、原発をつくった会社は責任をとわれることはないという仕組みになっています。市民は原発をつくった会社を訴えることができないという状態です。東京では原発輸出反対の集会がありますので、どうぞご参加ください。

参加者:
震災後から福島に入り、被災した人のサポートと外部のNPOの橋渡しをしています。福島で起こっていることを発信しています。福島では避難をしている人が多いです。しかし原発事故以前のように住んでいる人もたくさんいます。住み続けている人は住むことを選択している人たちです。家族や自分の健康状態について心配している人ももちろん多いですが、努めてかんがえるのをやめようとしている人たちもいます。行政はまだ線量の高い地域に住民を戻そうとしています。平穏な日常生活を取り戻したいと願う一方で、常に放射能を気にして板挟みになっている状態です。このような具体的な状況を日本から外国へも発信して、台湾、ベトナム、アフリカ、日本が原発を輸出している国々の人々とつながっていこうという活動をしています。人が行き来するのが一番の交流になると思います。今日は台湾のみなさんの活動を映画でみることができてとてもよかったです。

夜の部 (参加者31人)

李怡修(リー・イシュウ)さんのお話し:

この映画が撮影された1999年から2004年は原発反対運動の低迷期でした。その前は台湾の民主化運動が盛んで、学生もデモに参加していました。民主化運動、反原発運動の友であった民進党が政府の中に入っていこうとしていた時期でもあります。反体制を掲げていた民進党は1992年~1994年の間、まず体制に入ってから改革を行おうという政治方針に転じ、理念より当選第一を目指すようになりました。結果として、労働運動や環境問題に対する取り組みとは一線を画するかたちとなり、貢寮から一歩引いた立場となったのです。住民が監察院に環境問題を訴えたのは、もう民進党は頼りにできないとさとったからです。台湾は五権分立の国。行政、司法、立法の三権に監察院と試験院(考試院)が加わります。監察院は権限があいまいで、糾弾することはできるけれども判決をくだすことはできません。映画の中でも監察院は台湾電力に勧告することはできますが、命令することはできないというところがでてきます。

2000~2004年、民進党の陳水扁(ちんすいへん)氏が大統領になりました。この時期、台湾では以前にも増してますます経済が最優先される状況となり、原発問題が軽視される傾向が強まりました。第4原発についてはすでに工事が始まっており、メンテナンスについても経費が発生している以上、中途で中止したとしたらこれまでの莫大な投資はどうなるのかという議論です。また、一時的に中止した時期があったからこそ経済が滞ってしまったという考え方の流れができていました。このまま2010年まで反原発活動としてはさらなる低迷期の中にいました。

2011年3月、福島での事故を機に原発は国際的な問題となりました。台湾でも多くの市民が声を上げ始め、反原発についての考え方が活発になってきました。
この世論をうけ、継続という判決がでた第4原発建設について国民投票によりその是非を問うてはどうかと国民党が提案しています。
「国民投票によって決める」というのは一見大変民主主義的であるように見えますが、実は大きな問題点があります。
この国民投票法は2004年に可決されたもので、有権者の2分の1が投票し、そのうちの2分の1の賛成があれば、法律よりも国民の意思決定が有効となる条件のことをさします。
現在台湾には1,800万人の有権者がいますから、そのうちの50%である900万人が投票にいき、さらにそのうちの450万人以上が建設反対へ投票するなら廃止となります。補足として付け加えますと、これまで台湾では公民投票法に基づき、原発問題ではない他のテーマで6回の投票が行われましたが、いずれも投票率が50%に満たず、投票そのものが不成立となっています。問題が鋭いほど、つまり賛成派と反対派が激しく対立するほど、投票率50%を超えない恐れがあると言えます。投票をボイコットする人々がでてくるという可能性も否めませんが、ごく自然な流れとしてみても、50%というハードルはやはり高いものがあります。
ですから、建設に賛成の人は、わざわざ投票に行く必要がありません。投票率が50%に満たなければ国民投票は無効になり、建設は続行されます。建設に賛成な人、建設にとくに関心のない人が投票に行かなければ国民投票自体が無効になります。この国民投票は「原発の是非を問う」のではなく、実質的に「原発反対を問う」というかたちになります。投票率が50%を下回り国民投票自体が無効になった場合、「原発続行」は黙認されます。
これが一見民主的に見える国民投票の大きな問題点です。もし、日本で将来国民投票が行われることになるなら、この点を考慮にいれないと、どんどん政権によってテーマがなしくずしにされかねません。

平野久美子さん:
わたしは1987年に戒厳令が終わって民主化が始まったころから、取材で台湾に通い出しました。
原発については実際に取材したことがないのでコメントできませんが、非常に政治的なカラーが強いということを感じます。
原発問題は環境問題でもあるのに、まさに政治の道具として使われてしまっています。
台湾の原発問題は日本が技術供与しているので私たちとも直結しています。現在、台湾では、「自分は台湾人である」とアイデンティティを持つ人が国民の70%を超えているという統計もでています。
それは純粋に自分の故郷を愛することであり、反原発運動ともつながっています。これを機会にもっともっと台湾のことを知ってほしいと思います。

李怡修(リー・イシュウ)さん:
おっしゃるとおり、若い世代は「わたしは台湾人である」というアイデンティティをもっています。政治と切り離して将来と原発・環境のことを考えてほしい。これはまさに自分は誰なのかという問いです。
福島からの情報は台湾でもたくさん受信されています。「原発がないと経済がだめになる」、「原発は絶対安全だ」と政治家はいっていますが、このセリフはどこの国でも同じようにくりかえされてきました。
自然エネルギー、とくに太陽光エネルギーについて、日本は台湾より一年を通して雨の日が少ないということで、より適しているのではないでしょうか。

アンケートから
たくさんのご回答をいただきありがとうございます。アンケートのなかからご参加くださった方々の声をご紹介します。

➢ 貢寮のみなさんの粘り強く勇気に満ちたすがたに感動しました。原発については日本のみでなく、世界中どこの国でも同じことが繰り返されていると思います。貢寮の映画をとられた崔監督、ありがとう。
➢ 台湾の反原発に関するドキュメンタリーをはじめてみました。また台湾の政治について、社会についても知ることができてよかったです。
➢ 台湾の歴史、政治や国民投票の流れがわかってよかった。初めて知りました。
➢ みなさんのいろんな意見をきくことができてよかったです。反原発の活動を続ける貢寮の人々の心情と努力に感動しました。心の連帯ができた感じです。
➢ 李さんのお話がきけてよかったです。やはり台湾のかたのお話を直接聞くということが一番であると思います。台湾の人々が今どのように考えているのかもっと知りたいです。
➢ 台湾の原発の現状を知り、愕然としました。まったく日本と同じ状況です。政治的な部分がいつもつきまとっている。
➢ どこの国でも同じ状況なのだなあと。メディアも本来の役割をなしていない。
➢ 貢寮の方々の粘り強い運動が日本の沖縄米軍基地への運動とかさなってみえました。原発を輸出し続けるということは、このような苦しみも輸出し続けるということになると思います。
➢ 受付でいただいた補足資料がとても役に立ちました。

追記:

昼・夜の交流カフェの収益と参加者の皆さまから寄せられたカンパは、すべて、『こんにちは貢寮』日本窓口で、長年台湾はじめアジア他の国々と連携した反核活動を続けているノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパンにカンパしました。
(ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン http://japan.nonukesasiaforum.org/

また、昼の部にて、上映に際し不手際がありました。お越しいただいた方に深くお詫び申し上げます。スタッフ一同研鑽を重ねてまいる所存です。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
つきましては、11月2日(土曜日)、陳威志(ダン・ウィジ)さんをゲストとしてお招きし、再上映を予定しております。詳細は追ってお知らせいたします。

「核」は国が違っても人間に同じ問題を提起します。
どうして原発が必要なのか。
日本でこの映画が上映されることになったとき、崔愫欣(チェ・スーシン)監督はこう序文に記しました。

彼らにとって、原発に反対することは、この土地を愛すること、
この海を愛すること、家族を愛すること

【中国語版】月一核電電影節 ──《貢寮你好嗎?》上映會暨交流咖啡記錄

[日本語版の報告はこちら]

翻譯:陳威志

「從地方創造未來・東區廣場」(地域から未来をつくる・ひがし広場)所舉辦的「月一核電專題電影節」(每月一次),於8月3日的放映已進行到第16回。在盛夏之際,下午與晚間兩個場次都有不少民眾前來共襄盛舉。

貢寮你好嗎?

播放影片:《貢寮你好嗎?》崔愫欣導演作品 
     2004年發行 台灣綠色公民行動聯盟

貢寮位在台北的東北方,是一處風光明媚的漁港,當地人多以漁業、養殖業等一級產業維生。

台灣在1970年代,分別於台北市與高雄市近郊興建了核一、核二及核三廠。核一廠與核二廠所使用的機組是與日本的福島第一核電廠1~6號機相同的(BWR);而核三廠則使用加壓水型反應爐(PWR)。另外,核四廠的機組則採用與福島第一核電廠的7、8號機相同的ABWR,該廠是由美國設計、日本製造的機組。負責興建核電廠的「台灣電力公司」是國營企業,從核一到核四,皆是在強調經濟發展的國家政策下所趨動的事業。

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