2014年4月5日(土) 第24回月1原発映画祭+交流カフェの報告

第24回月1原発映画祭では、騎西高校に避難した双葉町民のドキュメンタリー映画「原発の町を追われて 避難民・双葉町の記録」を上映するとともに、同映画監督の堀切さとみさんをお招きしてお話をお伺いしました。

堀切さんが夜の部だけでなく昼の部にもお越しくださったので、昼のほうでもも上映後トークと質問タイムをお願いすることができました。
旧騎西高校避難所の最初の1年を記録した正編、県内避難の町民と騎西高校避難の町民の分断・対立があらわになっていく続編を観て、さらに堀切さんのお話をうかがうと、年を追って問題が深刻に複雑になっていくことがよくわかります。
堀切さんは、さいたま市で学校給食調理の仕事をされながら、避難所に通いつづけてこの映画を制作されました。
一市民の目で取材・撮影し、率直な言葉で語る堀切さんの姿勢に共感した方が多かったようでした。

堀切さとみさんのお話

みなさま、こんばんは。本日はお集まりいただきありがとうございます。堀切さとみと申します。埼玉県さいたま市からまいりました。わたしは給食の調理士として小学校で働いています。
震災があり、原発事故から一週間くらいたった2011年3月下旬に、南相馬、大熊、双葉、富岡、浪江といった福島県浜通りからたくさんの人びとがさいたまスーパーアリーナに避難してきました。放射能のことを考えると、自分自身このまま埼玉にいていいのかという不安がありました。そこへ浜通りのかたがたが避難なされてきたので、彼らと出会って話を聞きたい、この大変さを共有したいという強い思いがこみあげてきました。炊き出しのボランティア以上に自分になにができるかと考えてみると、とにかくもっと人々の話を聞きたいと思ったこと、そして、以前からドキュメントリー映画が好きで、2008年に市民メディアセンターというところで映像を学んでいましたので、記録として残すことはできないだろうかと思いました。これが「原発の町を追われて 避難民・双葉町の記録」を撮影することになったきっかけです。

本編には双葉町の人びとが騎西高校で生活する様子が記録されています。騎西高校の避難所が閉鎖されるまでの2年9か月、みなさん教室にたたみを敷いて和室をつくり、その部屋を段ボール等で区分けして複数の世帯が共同で生活していました。騎西高校はあくまでも一時避難所としての機能です。プライバシーがありません。お風呂も学校内にないので、銭湯にかよいます。食事は朝昼晩の3食ともお弁当が配られました。ふつうのコンビニで売られているようなお弁当です。学校設備として給食調理室がありましたが、埼玉県が避難している人に対して校内での火器使用の許可を最後までださなかったため、自分たちで調理をして食事をとるということができませんでした。お弁当ではカロリーが高すぎたり、栄養がかたよってしまうと考える人、逆に、高校に長居するつもりはないからお弁当でよいという人や、食事を自分たちでつくることになれば、当番を決めたりするのにもめるだろうと考える人もいて、それぞれの受け止め方がありましたが、やはり食事をつくることができないというのが一番苦しいと訴えていました。

騎西高校には毎日たくさんのボランティアの方々、慰問の方々がおとずれて、イベントが開かれ、食べ物が配られていました。ご高齢のみなさんは双葉町にいたころ、農作業をしたり、手仕事をしたりして、毎日暮らしにちからがあったといいます。しかし騎西高校に避難していると、毎日何もすることがなく、張り合いのない長い一日となっているとおっしゃっていました。朝起きて、お弁当を取りに行き、食事をして、洗濯物をとりにいったらそのあと何もすることがないという暮らしです。「ここには自分の暮らしはない」とおっしゃられている方もいました。こんななか、校舎の一室で書道教室をひらいた書家の方もいらっしゃいます。老若男女がこの小さな学び舎につどいました。近くの借り上げ住宅に移られたご高齢のかたがたは、車で迎えにきてもらわないと騎西高校のサロン(談話室を兼ねたカフェ)に出かけていくことができない状態です。

若い方々、働き盛りの方々は毎日埼玉で仕事を探しておられました。わたしは埼玉県民ですが、埼玉で仕事を見つけるのは、わたしたちでも難しいのです。仕事がなければ生活はどうする?お金はどうする?というふうになり、埼玉ではなかなか仕事が見つからないので、福島県にもどり、隣接したいわき市に居住して、そこから原発内の工事や除染の仕事をするという人々が多くなっていました。原発のために忠実に何十年も働いてきたのは地元の人間です。事故が起こって遠くの知らない土地へ避難しても、仕事を探して福島に帰り、戻っても仕事がないので、再び原発関連の仕事をするしかないというのが今の現実です。これまで原発で働いて、さんざん被ばくしてきているのだから、今さらそれほど考えなくてもよいという人がいます。以前、被ばくというのは原発内の仕事でごく限られたところでだけおこったことでした。事故後の福島では一般の住民を巻き込んだ生活領域全般で被ばくが起こっています。この点が事故後大きく違ってきているところです。福島に帰り、とりあえず原発の仕事がある。とりあえずはなんとかなる、しかし、これで終わってしまいます。原発とともに生きてきた双葉町民はこれだけの事故があってもなお、原発とは切っても切れない関係であるということころがとてもせつなくひびいてきます。

また、外部からは「精神的慰謝料」として東電から月々お金をもらっているのだから、別に働かなくてもいいじゃないかという意見もでています。しかしこれも単にお金があれば働かなくてもいいという問題ではありません。仕事やいきがい、つまり人間が生きいていくうえでの原動力となる部分がとりあげられている状態です。これまでなんらかの仕事をしてきた人々にとっては、精神的にかなりきつい状況であると思います。

双葉町にかぎらず、原発のある町の人びとは、原発が事故をおこしたとしてもなかなか原発に反対することができないのではないか、反対しにくいのではないかと思います。
福島原発の事故後、加須市に双葉町民のみなさんがいらしたとき、とても遠慮がちにくらしておいででした。加須が自分たちの地元ではないということでそうであったのかもしれませんが、ひかえめに、お世話になりますという感じでした。
たとえば双葉町にいたときには町民が東電からいろんな名目で手当をもらっていたという事実があります。福島のなかで原発についてなにも恩恵をうけてこなかった自治体も放射能汚染地帯となったため、双葉町民にはなおさら「自分たちは長年東電からお金をもらってきて、恩恵もあったのだから、このような事故にあってもなにもいえないのではないか。自業自得ではないのか。なにも言ってはいけないのではないか。」という引け目やジレンマがあるように感じました。わたし自身は彼らの姿を見て、復興のためになんとか声をあげてほしいと思っています。映画を撮ることにより、人々の感情の変化を感じました。

事故後3年がたち、風化が進んでいます。しかし、震災・原発事故の大変さは3年たってからというそうです。実際、仮設住宅でも自殺する人や孤独死が増えています。原発がもたらすものはなんなのかということです。本日は上映していただき、たくさんのかたがたにご覧いただけたことに感謝いたします。ありがとうございました。


現在、堀切さんは取材抜きで加須市やいわき市に住む双葉町の人たちと交流を続けているとのこと、今後も時々お話をうかがっていきたいものです。

【参加者アンケートより】

〈映画について〉
★非常に丁寧でフェアな作りに思った。
★知識としては知っていても、現実の映像に衝撃を受けました。
★双葉町の人たちがこんなにも2つに分かれて、埼玉に出た人々と福島に残った町民の間で対立があるとは知らなかったので貴重。これは現在の原発のある町(大飯etc…)に見てもらいたい。東京や全国の人々にも。
★現実の生の被災者の心情を感じることができました。どうこれからかかわっていくか?
 まず知ることが大事だと思いました。
★住民同士、また町長との確執を初めて知りました。
★年に数回、ボランティアでいわきへ行っています。ボランティアを受ける側の気持ち、原発事故で何を大切にして補償問題について語らなければならないか?ということを考えました。
★作られた安全神話の原発が制御できない危険物となってしまい、だまされて追い出された人々に対する東電・政府・一般の人のサポートや配慮があまりにも理不尽であること(献身的に活動されている方もいますが)がよくわかりました。今回の最大の収穫でした。
★双葉町町民の複雑な気持ちを聞き、まったく事故が終わっていないと感じた。

〈ゲストトークについて〉
★わかりやすい説明でした。熱意に溢れていました。
★普通の人(ではないかもしれませんが)が仕事以外にすごい活動をしているんだと、その生き方に感動しました。

〈交流カフェについて〉
★料理もおいしく、アットホームでまた来たいと思いました。狭い空間と人数がちょうど良いなと思います。
★色々な主義主張の人々が集まる会合として大変良いムードを作られて感心しました。

今回の報告をまとめるにあたって、映画の背景となる双葉町と原発について、および原発震災後の町民の避難の経緯について、補足として解説を付けましたので、以下併せてご参照ください。

【解説】双葉町(ふたばまち)と原発・事故後の避難の経緯

福島県双葉町は、太平洋に面した福島県浜通りの中央部に位置しています。山あり海あり川もある、自然に恵まれた、かつ比較的温暖な土地。かつては第一次産業によって生活が営まれ、冬は出稼ぎに都市部へ出るという地域でした。
1960年代東京電力により福島第一原子力発電所が町内に建てられ始め、原発工事の下請けや関係者相手の商売がなだれ込み、一方で離農がすすみました。一年中町の中に仕事ができることで冬は出稼ぎに行かずとも生活が成り立つようになりました。以来、原発とともに歩んできた立地町です。
原発から半径10km圏内に町全体が入るため、原発事故後、帰宅困難区域に指定されています。

経産省HPより抜粋

2011年3月11日に東日本大震災がおこり、同日夜、原子力緊急事態宣言。12日、住民に対して避難指示が出され、大多数の町民は福島県中通りにある川俣町へ避難しました。人口約7,000人の町民が同規模の川俣町へと移動したことにより、受け入れた川俣町の人口は一挙に2倍へ膨れ上がりました。このため当時の双葉町長が判断し、20,000人収容可能の「さいたまスーパーアリーナ」が一時避難所として指定されたことをふまえ、バスで移動することになりました。すでに福島県浜通りの市町村からたくさんの人々がさいたまスーパーアリーナへ避難してきたという状況でした。
3月30日、埼玉県加須市にある騎西(きさい)高校という廃校になった校舎が避難所として指定されたのを受け、町長の判断のもと、避難を希望する町民が移りました。このとき全町民の約5分の1にあたる1,400人が埼玉に残り騎西高校での生活が始まりました。4月1日、双葉町役場埼玉支所開設。前代未聞の事態となりました。町は「帰宅困難地域」に分類されましたので、先の見えない生活が廃校ではじまりました。
騎西高校に移らなかった5,600人の双葉町民のうち大多数の人びとは、普通に生活できる地域とされた、いわき市、郡山市等、福島県内の近隣市町村へ転居するため福島へもどりました。また、個人的なつてをたよりに他府県へ避難することを選択した人々、海外へ移り住むことを決めた人々もおられました。

広報ふたば2014年3月号より抜粋(3ページ目参照)

「広報ふたば2014年6月号(20ページ)」によると、2014年5月1日現在双葉町の避難状況は下記のようになっています。

町民の57%が福島県内に避難しており、43%が福島県外に避難している状況があらわされています。

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