月1原発映画祭の報告

2017年1月8日 第50回月1原発映画祭/交流カフェ原発映画祭 豊田直巳監督トーク

2017年1月8日に開催した第50回月1原発映画祭/交流カフェ原発映画祭 豊田直巳監督トーク動画です。
YouTube

第37回 月1原発映画祭 島田恵監督トーク

第37回 月1原発映画祭 島田恵監督トーク(2015.5.9開催)
https://youtu.be/gEya9ohjsqk

大変わかりやすく、かつ鋭く踏み込んだお話、
六ヶ所村のことや核燃料サイクル施設について知りたい方、
おさらいしたい方、ぜひご覧ください。

第35回月1原発映画祭/交流カフェ「原発附和雷同」長井公一・みさ子夫妻トーク(司会:石本恵美)

【第35回月1原発映画祭/交流カフェ】
「原発附和雷同 ~東京に暮らす私の3.11~」上映
ゲスト=石本恵美監督+長井公一・みさ子夫妻

2015年3月7日(土)に開催した、第35回月1原発映画祭/交流カフェでは、
「原発附和雷同 ~東京に暮らす私の3.11~」を上映しました。
この映画を製作した石本恵美監督司会による、長井公一・みさ子夫妻トークの
様子を公開します。

YouTubeの動画はこちらよりご覧ください。

第33回月1原発映画祭/交流カフェ「チェルノブイリ・28年目の子どもたち」上映会トーク動画

【第33回月1原発映画祭/交流カフェ】
「チェルノブイリ・28年目の子どもたち」上映会
ゲスト:白石草さん

2015年1月15日(土)に開催した第33回月1原発映画祭/交流カフェでは、
『チェルノブイリ・28年目の子どもたち 〜低線量長期被曝の現場から』
を上映ました。この映画を製作されたOurPlanet-TVの白石草さんをゲストに
迎え、ウクライナの子どもたちや母親の様子などをうかがいました。

YouTubeの動画はこちらよりご覧ください。

第30回 月1原発映画祭「元原発技術者と一緒に原発PR映画を観る」トーク動画

【第30回月1原発映画祭/交流カフェ】
「元原発技術者と一緒に原発PR映画を観る」
ゲスト=小倉志郎さん(元原発技術者)

2014年10月4日に開催した第30回月1原発映画祭/交流カフェでは、
福島第1原発の技術者として35年間(1967~2002)働いた小倉志郎さんを迎え­、
一緒に原発PR映画を観ながらお話をうかがいました。
映画は福島第1原発の建設が始まった1967年と営業運転を開始した1971年に製作­されたもの。
まさに小倉さんが仕事を始められた時期と重なります。
当時のようすとご自身の体験からどんな話が飛び出すか・・・?

YouTubeの動画はこちらよりご覧ください。

2014年7月5日(土) 第27回月1原発映画祭/交流カフェ イアン・トーマス・アッシュ監督トーク

2014年7月5日(土)に開催した、第27回月1原発映画際/交流カフェで映画「A2-B-C」を上映しました。この時ゲストとしていらっしゃいました、イアン・トーマス・アッシュ監督のトーク動画を公開しました。

YouTubeへのリンク

トークには映画「フタバから遠く離れて」の舩橋淳監督も参加されています。

2014年7月5日(土) 第27回月1原発映画祭/交流カフェ「A2-B-C」上映+ゲスト:イアン・トーマス・アッシュ監督開催報告

7/5、第27回月1原発映画祭が終了しました。
前日の東京新聞夕刊に上映作品の「A2-B-C」と
監督インタビュー記事が大きく載ったので、対応に大わらわ、
満席でお断りした方には申し訳なかったです。
7/26にレイバー映画祭で上映されますので、
未見の方、ぜひお出かけください。
http://www.labornetjp.org/news/2014/0726eiga

この映画、ほんとうは日本中のお茶の間でみて、共有したい内容です。
甲状腺検査で見つかったのう胞などが
原発事故と関係あるのかないのか、
それがきちんと証明されるのは先のことかもしれませんが、
現に診断された子どもたち、その親たちは不安を抱えたまま
毎日を暮らしている、将来の心配をしている。
これは誰が何と言おうと今の福島(日本)のひとコマなのだということが
ずしりと伝わってきます。
イアン・トーマス・アッシュ監督は
「原発事故との因果関係がわかってからでは遅い。
あとになって、もっと子どもたちを守ればよかったと後悔するより、
あの時は心配しすぎたねと言うほうがいいじゃないですか」
と話されていました。
イアン監督はご自分の感情をまっすぐに語りながらも
言葉や物腰がとても奥ゆかしく、
映画の中で子どもたちやお母さんたちが心をひらいていたのが納得です。

2014年6月7日(土) 第26回月1原発映画祭/交流カフェの松村直登・藍原寛子対談動画

2014年6月7日(土)に開催した、第26回月1原発映画祭/交流カフェの松村直登・藍原寛子対談の動画を公開しました。

YouTubeへのリンク

こちらの動画は、今回のゲストの松村直登さんを主人公として描かれた「原発20キロ圏内に生きる男」の上映を行った後に行われた、松村直登さんと藍原寛子さんの対談の様子です。

※松村さんの名前を「村松さん」と何度か言いまちがえました。
ごめんなさい!!(藍原寛子)

2014年4月5日(土) 第24回月1原発映画祭+交流カフェの報告

第24回月1原発映画祭では、騎西高校に避難した双葉町民のドキュメンタリー映画「原発の町を追われて 避難民・双葉町の記録」を上映するとともに、同映画監督の堀切さとみさんをお招きしてお話をお伺いしました。

堀切さんが夜の部だけでなく昼の部にもお越しくださったので、昼のほうでもも上映後トークと質問タイムをお願いすることができました。
旧騎西高校避難所の最初の1年を記録した正編、県内避難の町民と騎西高校避難の町民の分断・対立があらわになっていく続編を観て、さらに堀切さんのお話をうかがうと、年を追って問題が深刻に複雑になっていくことがよくわかります。
堀切さんは、さいたま市で学校給食調理の仕事をされながら、避難所に通いつづけてこの映画を制作されました。
一市民の目で取材・撮影し、率直な言葉で語る堀切さんの姿勢に共感した方が多かったようでした。

堀切さとみさんのお話

みなさま、こんばんは。本日はお集まりいただきありがとうございます。堀切さとみと申します。埼玉県さいたま市からまいりました。わたしは給食の調理士として小学校で働いています。
震災があり、原発事故から一週間くらいたった2011年3月下旬に、南相馬、大熊、双葉、富岡、浪江といった福島県浜通りからたくさんの人びとがさいたまスーパーアリーナに避難してきました。放射能のことを考えると、自分自身このまま埼玉にいていいのかという不安がありました。そこへ浜通りのかたがたが避難なされてきたので、彼らと出会って話を聞きたい、この大変さを共有したいという強い思いがこみあげてきました。炊き出しのボランティア以上に自分になにができるかと考えてみると、とにかくもっと人々の話を聞きたいと思ったこと、そして、以前からドキュメントリー映画が好きで、2008年に市民メディアセンターというところで映像を学んでいましたので、記録として残すことはできないだろうかと思いました。これが「原発の町を追われて 避難民・双葉町の記録」を撮影することになったきっかけです。

本編には双葉町の人びとが騎西高校で生活する様子が記録されています。騎西高校の避難所が閉鎖されるまでの2年9か月、みなさん教室にたたみを敷いて和室をつくり、その部屋を段ボール等で区分けして複数の世帯が共同で生活していました。騎西高校はあくまでも一時避難所としての機能です。プライバシーがありません。お風呂も学校内にないので、銭湯にかよいます。食事は朝昼晩の3食ともお弁当が配られました。ふつうのコンビニで売られているようなお弁当です。学校設備として給食調理室がありましたが、埼玉県が避難している人に対して校内での火器使用の許可を最後までださなかったため、自分たちで調理をして食事をとるということができませんでした。お弁当ではカロリーが高すぎたり、栄養がかたよってしまうと考える人、逆に、高校に長居するつもりはないからお弁当でよいという人や、食事を自分たちでつくることになれば、当番を決めたりするのにもめるだろうと考える人もいて、それぞれの受け止め方がありましたが、やはり食事をつくることができないというのが一番苦しいと訴えていました。

騎西高校には毎日たくさんのボランティアの方々、慰問の方々がおとずれて、イベントが開かれ、食べ物が配られていました。ご高齢のみなさんは双葉町にいたころ、農作業をしたり、手仕事をしたりして、毎日暮らしにちからがあったといいます。しかし騎西高校に避難していると、毎日何もすることがなく、張り合いのない長い一日となっているとおっしゃっていました。朝起きて、お弁当を取りに行き、食事をして、洗濯物をとりにいったらそのあと何もすることがないという暮らしです。「ここには自分の暮らしはない」とおっしゃられている方もいました。こんななか、校舎の一室で書道教室をひらいた書家の方もいらっしゃいます。老若男女がこの小さな学び舎につどいました。近くの借り上げ住宅に移られたご高齢のかたがたは、車で迎えにきてもらわないと騎西高校のサロン(談話室を兼ねたカフェ)に出かけていくことができない状態です。

若い方々、働き盛りの方々は毎日埼玉で仕事を探しておられました。わたしは埼玉県民ですが、埼玉で仕事を見つけるのは、わたしたちでも難しいのです。仕事がなければ生活はどうする?お金はどうする?というふうになり、埼玉ではなかなか仕事が見つからないので、福島県にもどり、隣接したいわき市に居住して、そこから原発内の工事や除染の仕事をするという人々が多くなっていました。原発のために忠実に何十年も働いてきたのは地元の人間です。事故が起こって遠くの知らない土地へ避難しても、仕事を探して福島に帰り、戻っても仕事がないので、再び原発関連の仕事をするしかないというのが今の現実です。これまで原発で働いて、さんざん被ばくしてきているのだから、今さらそれほど考えなくてもよいという人がいます。以前、被ばくというのは原発内の仕事でごく限られたところでだけおこったことでした。事故後の福島では一般の住民を巻き込んだ生活領域全般で被ばくが起こっています。この点が事故後大きく違ってきているところです。福島に帰り、とりあえず原発の仕事がある。とりあえずはなんとかなる、しかし、これで終わってしまいます。原発とともに生きてきた双葉町民はこれだけの事故があってもなお、原発とは切っても切れない関係であるということころがとてもせつなくひびいてきます。

また、外部からは「精神的慰謝料」として東電から月々お金をもらっているのだから、別に働かなくてもいいじゃないかという意見もでています。しかしこれも単にお金があれば働かなくてもいいという問題ではありません。仕事やいきがい、つまり人間が生きいていくうえでの原動力となる部分がとりあげられている状態です。これまでなんらかの仕事をしてきた人々にとっては、精神的にかなりきつい状況であると思います。

双葉町にかぎらず、原発のある町の人びとは、原発が事故をおこしたとしてもなかなか原発に反対することができないのではないか、反対しにくいのではないかと思います。
福島原発の事故後、加須市に双葉町民のみなさんがいらしたとき、とても遠慮がちにくらしておいででした。加須が自分たちの地元ではないということでそうであったのかもしれませんが、ひかえめに、お世話になりますという感じでした。
たとえば双葉町にいたときには町民が東電からいろんな名目で手当をもらっていたという事実があります。福島のなかで原発についてなにも恩恵をうけてこなかった自治体も放射能汚染地帯となったため、双葉町民にはなおさら「自分たちは長年東電からお金をもらってきて、恩恵もあったのだから、このような事故にあってもなにもいえないのではないか。自業自得ではないのか。なにも言ってはいけないのではないか。」という引け目やジレンマがあるように感じました。わたし自身は彼らの姿を見て、復興のためになんとか声をあげてほしいと思っています。映画を撮ることにより、人々の感情の変化を感じました。

事故後3年がたち、風化が進んでいます。しかし、震災・原発事故の大変さは3年たってからというそうです。実際、仮設住宅でも自殺する人や孤独死が増えています。原発がもたらすものはなんなのかということです。本日は上映していただき、たくさんのかたがたにご覧いただけたことに感謝いたします。ありがとうございました。

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