2013年6月1日(土) 第14回月1原発映画祭 「夏休みの宿題は終わらない」上映会+交流カフェのご報告

2012年5月12日(土)の「原発ほんまかいな」ではじまった月1原発映画祭は、2年目を迎えました。2年目からは、偶数月の第1土曜日を「本祭」としてこれまでどおりの[映画上映+交流カフェ]、奇数月は、「陰祭」として[スタッフ勉強会+試写会]を行っています。
ということで今回は本祭、「夏休みの宿題は終わらない――英・仏の核燃料再処理施設の周辺に生きる人びとと出会って…」を、制作者の倉岡明子さんを迎えて上映しました。
この映画の制作年は、1989年。撮影されたのは、ちょうど25年前の1988年。倉岡さんは、70年代には、アテネフランセ文化センターで内外の映画紹介や文化事業を実施、映画技術、美学講座を運営してきた名物スタッフだったらしい。映画だけでなく、制作者本人にも興味が湧き、倉岡さんを交流カフェのゲストに招くことになりました。

【昼の部】13:00~15:30

今年は、梅雨の入りが、5月中と早く、お天気が心配されましたが、なんとかもちました。第一部の参加者はスタッフ含めて22人。2時間10分の長いドキュメンタリー映画です。谷中の家には、柔らかなシートはありません。一番奥には、ベンチ状の特等席を設置。映画の舞台がフランスからイギリスに移るところで、休憩を取りました。リフレッシュのために谷中まるに製ほうじ茶や、ミント、レモングラス、レモンバームなどの生ハーブティーを各種用意し、自由に取れるようにしてあります。
倉岡さんは、青森市出身。東京から青森県六ヶ所村に親子3人で通い、3年間かけて記録映画「六ヶ所人間記」(1985年)を撮りました。1984年、六ヶ所村に「核燃料サイクル施設」建設計画が浮上。同様の施設のある、フランスのラ・アーグ、イキリスのセラフィールドの現実を知りたいという思いが募ります。そして、1988年夏、1ヶ月にわたる撮影旅行を敢行。原発や核燃料施設のある村の実態が、そこに住む人の証言で次々に明らかにされます。当時、息子の玄君は4年生。旅を続けながら、次第に子どもから少年に、たくましく成長していく姿も映し出されていました。
15時半に映画が終わった後も、立ち去りがたく、お茶を飲みながら情報交換をしたり、熱心にアンケートを書く人もありました。

【夜の部】17:00~20:30

今回は、夜の部の上映開始は、いつもより30分早い17時。夜の部の参加者はスタッフ含めて36人でした。映画の終わりごろには、倉岡さんも到着。映画終了の拍手を受けた後、倉岡さんにお話をしていただきました。

【倉岡明子さんのお話(概要)】

25年前の、長い映画を見ていただき、ありがとうございました。この映画を撮影したのは、ちょうど25年前の1988年。撮影期間は1ヶ月です。完成した1989年から10年くらい、全国あちこちに持って回り、なるべく多くの人に見てもらえるよう、努力してきました。
前作の、青森県下北半島の付け根にある六ヶ所村の人々を撮った「六ヶ所人間記」は、1985年の公開でした。私は、青森市の出身です。1970年代、六ヶ所村は、むつ小川原開発といって、巨大な石油コンビナート工業地として開発されようとしていました。ここに住むのは、戦後入植し、開墾をしてきた人々です。冬の間は、男たちは家族と離れ出稼ぎに行っていました。そこで残されて暮らす妻たちの話を聞きたいと思っていました。
1981年、青森の湾内から森を抜けると突如巨大な石油のタンク群(国家石油備蓄基地)が現れ、愕然としました。この地で何が起ころうとしているのか、開発の実態を問うべく村人の話を聞かなければと映画製作を決意したのです。東京〜青森市〜六ヶ所村と3年間、通い詰め、映画にしていったのです。
撮影の最中の1984年、六ヶ所村に核燃料サイクル基地建設計画がもちあがり、翌年に北村知事が受け入れを表明しました。

推進/反対と県民は分裂し、県民投票もあったのですが、結局1997年に建設が始まり、施設はできてしまいました。それから何度も試験されたのですが、トラブルが続いて運転はできず、ついに数日前、高レベル放射能廃液のガラス固化に成功したというニュースがありました。この10月くらいに運転を始めるかもしれません。
そういうわけで、「六ヶ所人間記」の後は、英仏にある核燃料再処理施設とそこに暮らす人たちに話を聞きたいと思っていました。
撮影にあたっては、原子力資料情報室の高木仁三郎さんに、パリではマイケル・シュナイダーさんを、英国ではセラフィールドの運動の中心になっていたCOREのジーン・エミリーさんを紹介してもらいました。後は、現地で、紹介から紹介で、行き当たりばったりの取材でしたが、1ヶ月ですばらしい人たちに出会えました。
セラフィールドで、夫を被曝により亡くしたキング夫人は、撮影の半年後に自殺で亡くなりました。「放射能の汚染は、何千年も続くから、絶対阻止しなくてはだめ」と言っていた最後のシーンが胸に迫ります。
フランスのラ・アーグの漁師のジャックや、英国セラフィールドでCOREの運動を続けている、息子さんが白血病を患ったジャニンヌさん、現在一緒に運動しているパートナーのマーチンさんなども、その後日本にいらしてさまざまな運動に参加しています。
私は、昨年12月の衆議院選挙の結果を、とてもまずいと思っています。このままで行くと、原発再稼動の方向に進んでいくでしょう。もっと若い人たち、大学生に、自分のこととして勉強してもらいたい。
70年代、すでにイヴァン・イリイチ(1926-2002 主著に「シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う」1981 など)は、脱学校、脱病院、脱官僚、脱専門家依存を説いています。セルジュ・ラトゥーシュ(1940- 近著に「〈脱成長〉は世界を変えられるか 贈与・幸福・自律の新たな社会」)は脱成長、経済成長なき社会の発展は可能だとしています。
「空から見た地球」という写真展で有名な写真家ヤン・アルテス・ベルトランが日本で取材した番組を、フランスのTVで見ました。賞味期限が過ぎているものをどんどん捨てて行く。どれだけのエネルギーが、食料品をつくり、捨てられるまでに無駄にされているのか、日本の消費社会の実態を告発しているものでした。日本は脱飽食に向かわないといけないと強く思います。
私は、しこしこ勉強しています。原発問題はやはり選挙で表明していくしかないので、投票権を持っている若い人たちに選挙に行ってもらうように、今のまずい状態に対して、なんとか説き伏せ、若い人たちにはたらきかけていくのが、われわれの責任だと思います。7月の参議院選挙の結果次第では、原発再稼動は、現実のものになってしまいますから。

【交流カフェ】

倉岡さんのお話が終わった後、質疑応答は、交流カフェでということになりました。
今回の交流カフェのメニューは、カフェスタッフ特製、10種の具入りパスタサラダ。冷たいワインが進みます。お茶のミント、レモンバーム、レモングラスなどの生ハーブは、「谷中の家」の屋上で採れたものです。

多数出た質問や意見の中から一部を紹介します。
参加者:日本もフランス、イギリスも同じ。貧しい地域が、危険を押し付けられている。都市と農村の構図は、25年前と変わっていない。
参加者:チェルノブイリ事故が1987年。あの教訓が生かされていない。イギリスの牧草地の風景があったが、飯館村を思わせる。
参加者:フランスは、農業国のはずだが、なぜ農民は、追い詰められているのか。
倉岡さん:EUになってから、東欧などから安いものが入ってきて、個人でやっている農家は、壊滅的な打撃を受けている。

このほか、参加者から、「『neoneo meets !!』vol.02「原発」」という映画祭の案内や、参院選を前に「7月の参議院選挙を考えよう」というパンフレットをつくり、カンパで配布しています、との呼びかけがありました。

【参加者からのアンケートより】
倉岡さんの生の声で解説を聞くことができ、貴重な機会でした。
紹介された本、勉強したいと思います。
一人ひとり、個人の方の声を採ったインタビュー。その後、みなさんは、どうなったのでしょう。
原発問題が自然、生活を通して語られていて、強く心に残った。
個人の力でこれだけの取材をされていてすばらしい。 倉岡さん自身がマイクを持ってインタビューされているのが、この映画の魅力。それも息子さんをともなってというところがステキ。
「六ヶ所人間記」を見てみたい。

聞き手の反応もよく、たいへん熱の入ったトークとなりました。選挙前であり、現状を変えるには、選挙が大事なんだということを倉岡さんは、強調していました。そして、個、個人というものを大切にしなければいけないということ。それは、倉岡さんの生き方として貫かれているものなのでしょう。この映画が撮影されたのは、25年前。ずっと変わらずに原発の問題を追い続けてきた倉岡さんの強いメッセージを、参加者それぞれがしっかり受け止め、終了となりました。

◆なお、今回の交流カフェのカンパから経費を差し引いた分は、全額、原子力資料情報室に寄付しましたことをご報告します。(西川)

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