月1原発映画祭の報告

2014年3月1日(土) 第23回月1原発映画祭/交流カフェ 権上かおるさん「福島・除染現場の現実」の報告

2014年3月1日、地域から未来をつくる・ひがし広場 第23回月1原発映画祭は、福島・除染現場の現実について権上かおるさん(環境カウンセラー)、県民健康管理調査と甲状腺検査について菊池京子さん(フリーライター)のお二人をお迎えして、現在福島では何がおこっているのかをテーマとしてお話をお伺いしました。

今回は、この報告会での権上かおるさんのお話を掲載します。菊池京子さんのお話は後日掲載予定です。


「福島・除染現場の現実」

お話:権上かおるさん(環境カウンセラー)

本報告のPDF版

こんばんは。権上かおると申します。材料分析や専門書の出版を職業としています。並行して長年、環境NGO酸性雨調査研究会で大気汚染や酸性雨を中心とした環境調査活動を行っています。このような経験から、原発事故以来「おそれて、こわがらず、放射能に立ち向かって暮らす」という情報発信をはじめ、生活者と科学者の橋渡しになることができればと活動してまいりました。また、福島の除染現場に立ち会う機会も多くなりました。最近では福島原発から流れ出す汚染水のニュースに隠れ、除染に関する報道は少なくなっています。本日は現在福島で行われている除染について、実態と問題点をお話させていただきます。

1. 除染とはなにか?

今回の事故がなければ 「除染」という言葉を耳にすることはなかったという方々が多いのではないでしょうか。除染とはなにか。環境省は次のように定義づけています。

「除染とは、生活する空間において受ける放射能の量を減らすために、放射性物質を取り除いたり、土で覆ったりすること」

環境省 除染情報サイトより「除染進捗マップ」

除染の対象となるのは地図で色がついている地域です。放射性物質汚染対処特措法に基づいて定められています。福島県のみならず、岩手県、宮城県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県および千葉県下の市町村にわたっているのがお分かりになると思います。除染について、管轄官庁の主体は環境省になっています。
まず、放射線量により、1)除染特別地域(楢葉町、富岡町、大熊町など11市町村)と、2)汚染状況重点調査地域に分かれます。2)に該当する地域は福島県内の福島市、郡山市をはじめとして1)以外のすべての地域が入ります。中央の円のなかには、環境省が目指す除染目標が描かれています。環境省は線量によって地域分けをし、それぞれの地域ごとに目標を置いています。では福島第一原発から 20-30km 圏内、居住者がいる地域での除染はどうなっているのかを具体的にみていくことにしましょう。

Jan. 11, 2014 11th anti nuclear power film festival - Keiko Kochiya talk

日本語版はこちら

On January 11th, as the new year, 2014 started, Higashi Hiroba which sets a goal to construct our future through community activities, held the 21th ANP (Anti Nuclear Power) film festival. In this January meeting, we had a special guest, Ms. KOCHIYA Keiko, the woodblock artist/painter, who introduced her Karuta, the traditional Japanese style card game, featuring the theme of ANP.
Here is her excerpt:

Hello everyone, my name is Kochiya Keiko. Thank you for coming today in such a cold weather. I am a woodblock artist. I usually work with carving and printing. Occasionally, I work to create picture book when I find something that particularly interests me in day-to-day events.

When the news of 9-11 broke, I thought it was going to be a war somewhere, in fact anywhere anytime. As an artist with creative mind, I strongly felt that there must be something I could do against this kind of act. I asked my artist friends to work together, and began working to have an “exhibit for No War” with them. I thought that the unspecific, abstract expressions, often adopted in such exhibits, would only leave viewers with the impression in great ambiguity. This time, I decided to make anti-war statement in much more accurate and specific terms and with this determination in mind, I started drawing pictures. The exhibit was a success and had become an annual event. We counted 8 times of this “exhibit for No War” before the 3-11 disaster happened.

Reading the news of 3-11 on the newspapers, I came to realize the scare of radiation and radioactive contamination the NPP accident spreads as the imminent threats to our environment. Further, as it became apparent that the process of news carefully being filtered and tailored, I had a feeling that this manipulation is in larger scale than we might think, involving the whole society.

Gradually the overwhelming anger and sense of betrayal inside of me took the form into phrases and pictures and I had produced a set of card game, in traditional Karuta format.

Here is an example:
Yu: Yuchishita Genpatsu Kuruzo Okkane
(Yu-for the syllabic letter Yu- : The NPP we invited is now coming; does it bring a scare or a lot of money?)

This is a pun, a play on words. NPP launch has double sides to the nearby communities, dividing their residents into two groups: On this card, I draw the picture of two different types of people. Those who welcome NPP and are pleased with the big money in their hands vs. those who are shaking out of radiation scare.

【中国語版】月一核電電影節 ──《貢寮你好嗎?》上映會暨交流咖啡記錄

[日本語版の報告はこちら]

翻譯:陳威志

「從地方創造未來・東區廣場」(地域から未来をつくる・ひがし広場)所舉辦的「月一核電專題電影節」,在2013年11月2日這一天邁向了第19回。8月時,我們曾放映台灣的紀錄片《貢寮你好嗎》,這一次將再次放映。

影片名稱:《貢寮你好嗎》

導演:崔愫欣
2004年發行 台灣綠色公民行動聯盟出版

本次邀請陳威志(Tan,Uichi)先生擔任與談人。陳先生目前就讀於一橋大學社會學博士班課程,在2005年到2008年間,服務於台灣的環保團體「綠色公民行動聯盟」,曾與當時綠盟的副祕書長,也就是《貢寮你好嗎》的崔愫欣導演,造訪祝島、廣島、北九州等地進行放映暨交流座談。

此次的放映會共有23人觀影,其中有18人留下來參加會後的交流咖啡,而陳威志的妻子呂美親,與8月放映會的與談人李怡修同學也出席了本次交流會。比起上次的討論,這次的觀眾發言更加踴躍且熱烈,由此可看出日本民眾對於台灣議題的關心程度。

以下,擷取部分內容刊載如下。建議閱讀時可對照劇情介紹,以及上一次交流咖啡記錄(http://www.jtgt.info/?q=node/387)。

交流咖啡

陳威志:在談論台灣核四問題前,我想先談一談戰後台灣的歷史背景,因為既有的社會分歧與政治對立,對於反核運動的開展有很大的影響。

以下我想先從族群與政治體制切入。

2013年11月2日(土) 第19回月1原発映画祭「こんにちは貢寮(コンリャオ)」アンコール上映会+交流カフェのご報告

[中国語版の報告はこちら]

11月2日、地域から未来をつくる・ひがし広場 月1原発映画祭は第19回を迎えました。今回は8月に上映した台湾のドキュメンタリー映画、「こんにちは貢寮」のアンコール上映です。

こんにちは貢寮

原題 「貢寮你好嗎?」 崔 愫欣(チェ・スーシン)監督作品 2004年 台湾緑色公民行動連盟

ゲスト・スピーカーに陳威志(ダン・ウィジ)さんをお招きしました。陳さんは現在一橋大学大学院博士課程で社会学を専攻されています。2005年から2008年まで、第4原発反対に取り組む台湾緑化公民行動連盟に勤務し、映画上映会のため崔愫欣(チェ・スーシン)監督とともに祝島、広島、北九州などを訪問された経験をお持ちです。
また、前回の上映会でゲスト・スピーカーをつとめた、一橋大学大学院法学研究科博士課程の李怡修(リー・イシュウ)さん、陳さんのパートナーである一橋大学大学院言語社会学研究科博士課程の呂美親(リー・ビーチン)さんもご出席くださり、それぞれにお話をうかがうことができました。
映画上映に23人、交流カフェに18人のご参加をいただきました。

今回の交流カフェでは、前回にも増して活発な質問や意見が参加者のみなさんから出され、関心の強さがうかがえました。映画の概略、前回の交流カフェリポートをあわせてご一読いただくことをおすすめします。(前回のレポートはこちらから

こんにちは貢寮

交流カフェ (参加者18人)

陳威志(ダン・ウィジ)さんのお話:
第4原発をめぐる動きとして、歴史的な経緯をお話します。歴史に絡む社会的分断や亀裂は、やはり第4原発反対運動の展開に大きく影響しているからです。

まず台湾の民族・エスニックと政治体制について目を向けてみましょう。
第二次世界大戦終結後、中国大陸では2つの党、中国共産党と中国国民党の間で内戦があり、1949年、敗れた中国国民党は党首である蒋介石とともに大陸から台湾へやってきました。このとき大陸からやってきた人々を外省人(がいしょうじん)と呼び、もともと台湾に住んでいた人々を本省人(ほんしょうじん)と呼びます。外省人は大陸の北京語を話すのに対し、本省人は台湾の現地語(台湾語、客家語、先住民族の原語)で話すとか、生活レベルをみると一般的に外省人は国の手厚い支援で、わりと安定した生活を送り、政治的に支配する側にいる場合が多いといったような現象がみられましたが、この分断は民主化・経済成長の進展とともに状況が変化し、現在では以前のようなはっきりとした区分はできにくいところまできました。

2013年8月3日(土) 第16回月1原発映画祭 「こんにちは貢寮(コンリャオ)」上映会+交流カフェのご報告

[中国語版の報告はこちら]

地域から未来をつくる・ひがし広場 月一原発映画祭は8月3日の上映会で16回目を迎えました。真夏日のなか昼の部・夜の部ともにたくさんのご参加をいただきました。

こんにちは貢寮

原題 「貢寮你好嗎?」 崔 愫欣(チェ・スーシン)監督作品 2004年 台湾緑色公民行動連盟

貢寮(こんりゃお)は台北から北東にある風光明媚な港町。多くの人々が漁業・養殖業をはじめとする第一次産業により生計をたてています。
台湾の原子力発電所に関する資料をひも解いてみると、1970年代に第1から第3原発まで、それぞれ台北市、高雄市の近郊に建てられているのがわかります。第1および第2原発は福島第1原発1 – 6号機と同型。第3原発は加圧水型原子炉。そして第4原発も福島第1原発の7,8号機と同型であり、アメリカが設計して日本により製造されたものです。台湾の電力会社、「台湾電力」は国営であり、国によって原子力発電所が起工・建設され、いずれも経済発展という国策のもとに稼働してきました。
台湾の歴史には、1949年から1987年までの38年に及ぶ長い戒厳令体制があります。第1原発から第3原発はまさにこの時代につくりあげられたもの。
貢寮が第4原子力発電所予定地となったのは1980年。1982年、原発用地が強制収容され、居住していた230戸が強制転居。

1988年台湾電力は貢寮住民への電力説明会を開きました。住民が原子力発電所設立に反対を示したにもかかわらず、翌日の新聞では「住民側が同意した」という報道がなされました。激怒した住民はこれを機に「監寮反核自救会」を結成。
自救会による貢寮でのはじめてのデモ行進が行われました。戒厳令解除後、このデモは民衆を社会的にめざめさせるきっかけとなっています。その後、台北でも慣例となり、毎年1万人規模のデモが行われました。

首相が第4原発建設宣言を行った1991年、「こんにちは貢寮」のテーマともなっている事件がおきました。10月3日、デモの中で住民と警官との衝突が発生。混乱の中で住民は警察に包囲されました。自救会のメンバーで車に乗っていた人たちがおり、彼らの車も警察に囲まれました。火花が散り、緊迫した状況のなかで車はフェンスをつきぬけ、それを追う警察の車でカーチェイスさながらの様相となり、急カーブした住民の車は電柱に衝突して横転。このとき警官1名が横転した車の下敷きになって死亡するという事故がおきたのです。

車を運転していたのが林順源さん。彼はその場で逮捕され、警官を死亡させたため無期懲役の刑が確定。花連刑務所に入ることとなります。10.3事件を知った崔監督は、刑務所にいる林順源さん(以下 源さん)に手紙を書き続け、自救会の活動のこと、原発のことを伝え続けてきました。
当時車に同席していた自救会メンバーは、それぞれに映画のなかでこう述べています。
「警官の車に追いかけられたとき、戒厳令下での白色テロ(為政者による拷問など激しい政治弾圧)の恐怖がわたしたちをおそいました。偶然のアクシデントが計画的犯行とみなされてしまった。わざとやったのではありません。あまりにもひどい判決であると思います。」
住民は反原発とともに源さんの釈放も訴え続けますが、どこからかわからないような脅迫電話がかかってきたり、余計なことをいわないようにという圧力を受けたと証言しています。
事件当時、源さんは兵役をおえたあと漁業で身をたてようと貢寮へやってきた若い青年でした。貢寮の住民にとっては外からやってきた人ですが、深い交流が始まりおたがいが支えあう同志となっていきました。1994年の貢寮住民投票では96%が建設に反対の票を入れています。

1999年立法院は第4原発の建設にともない、貢寮住民の漁業権をはく奪するという決定をしました。交換条件として補償の話をもちだしましたが、住民は自分たちだけでなく子供たち孫たちの未来までとりあげたと激しく反発。
また住民は環境問題という点から、工事による地形・海底の変化、廃土のため地形がかわり川が変形して洪水の危険性があること調査会を通して台北県へ陳情。原発建設敷地内j見つかった原住民の古代遺跡や美しい海岸線の保護をまとめ、監察院へも陳情します。しかし監察院には建設を中止させるだけの権限がなく、台湾電力に対して是正案を求めるだけに終わりました。

1999年9月21日、台湾中央部にある南投県で大きな地震がおこります。もし原発が点在している台湾東北部でこのような地震が起こったらどうなるのかとの思いを抱え、住民は原発の監視を続けます。第4原発はアメリカによって図面がひかれ、日本によって建設工事がおこなわれるという「輸出された原発」。国と国との間に生ずる莫大な利益への圧力があります。海上輸送された日本からの原発部品が到着すると、住民は星条旗や日の丸を燃やして抗議しました。原発を推進してきた国民党が半世紀以上も政権を維持していた当時、住民は政権交代によって政策がかわれば建設も中止されるとの期待を持っていました。

2000年、総統選で反原発を掲げてきた民進党候補者が選出され、国民党が初めて政権を失いました。これにより第4原発建設工事は進捗率35%未満にて中止となりました。朗報もつかの間、その後、建設に対する民進党のあいまいな態度、住民という当事者不在ですすめられる会議、そして現在の不景気の要因はすべて建設中止にあると騒ぎ立てるマスコミにより翻弄される日々が続きます。第4原発建設を政治の道具としないでほしい。台北市でも非核国家、安全な生活環境をスローガンに市民団体による大規模なデモがおこなわれました。
憲法解釈法廷は、第4原発の建設中止について、「建設中止の決定は重要な政策変更であったにもかかわらず、十分な質疑が立法院でなされなかった。一方的な宣言や決定には瑕疵があった。」と判断。これにより国会で臨時議会が開かれ、2001年1月29日134票のうち賛成70票で第4原発建設の続行が可決されました。

映画の中では、一時的に外泊が認められた源さんが貢寮へ戻ってくるシーンもでてきます。
2002年10年以上も刑務所のなかで過ごした源さんが貢寮のみなさんと再会するシーン。だれもが家族のように彼を迎えています。過酷な長い時期を経てもなお源さんの顔にはほほえみがありました。時が流れ20年を超える第4原発反対運動のなかで、幾人もの方々がご高齢によりお亡くなりになられています。

約1時間半に及ぶ映画の中には住民たちのたくましさとともにこまやかな感情がちりばめられています。源さんへの手紙を通して崔監督がとらえた台湾。監督自らのナレーションにより広がる映像。
どうして原発をつくらなくてはならないのかという原点ともいえる問い。
この映画は現在を生きる人々への強いメッセージであるとともに、反原発に関わりながらお亡くなりになられた住民への静かな追悼でもあります。


交流カフェ

当初ゲストに陳威志(ダン・ウィジ)さんをお招きする予定でした。陳さんは現在一橋大学大学院博士課程で社会学を専攻されています。2005年から2008年まで第4原発反対に取り組む台湾緑色公民行動連盟に勤務し、映画上映会のため崔愫欣(チェ・スーシン)監督とともに祝島、広島、北九州などを訪問された経験をお持ちです。
しかし、7月22日、陳さんの弟さんである、陳炯霖(ダン・ギンリン)さんが、海の事故により、30歳という若さでご逝去なされました。台湾の反原発運動と日本の反原発運動を結ぶ、とても重要な役割を担っておられたそうです。
ご冥福をこころよりお祈りいたします。
このため陳さんは急遽帰国され、8/3のご出席はかなわなくなりました。
陳さんの後輩にあたる、李怡修(リー・イシュウ)さんが夜の部交流カフェに参加することをご快諾くださいました。李さんは一橋大学大学院法学研究科博士課程在籍中でいらっしゃいます。
昼の部、夜の部ともに映画をみた感想や意見の交換が活発になされた交流カフェでした。みなさんの主だったお話をご紹介します。こちらからあらかじめコメントをお願いしていた方のみお名前を表記いたしました。

昼の部 (参加者27名)

三宅清子さん:
わたしは1970年代台湾に住んでおりましたので、戒厳令というものがどういうものであるか身をもって体験しています。デモをするというのはまったく不可能であり、たとえば読書会のように小さな集会をもっても反体制ということで、投獄され拷問を受けるという世の中でした。このため政治犯があまりにも多かったのです。わたしはアムネスティにこの事実について報告し、無実である政治犯の釈放運動をしていました。映画のなかで戒厳令解除後のデモを観ました。第1原発から第3原発は戒厳令下でつくられたので、国民はなにかものをいうということはありえなかったと思います。現在でも台湾のマスコミは政治的にコントロールされているので、国民の声が反映されているとは言い難いところです。今日は映画をみて、原発が日本から輸出されていくことのむごさを感じました。

参加者:
日本は原発をどんどん輸出しようとしています。日本では、原発に事故があったとき、電力会社は責任をとることになっていますが、原発をつくった会社は責任をとわれることはないという仕組みになっています。市民は原発をつくった会社を訴えることができないという状態です。東京では原発輸出反対の集会がありますので、どうぞご参加ください。

参加者:
震災後から福島に入り、被災した人のサポートと外部のNPOの橋渡しをしています。福島で起こっていることを発信しています。福島では避難をしている人が多いです。しかし原発事故以前のように住んでいる人もたくさんいます。住み続けている人は住むことを選択している人たちです。家族や自分の健康状態について心配している人ももちろん多いですが、努めてかんがえるのをやめようとしている人たちもいます。行政はまだ線量の高い地域に住民を戻そうとしています。平穏な日常生活を取り戻したいと願う一方で、常に放射能を気にして板挟みになっている状態です。このような具体的な状況を日本から外国へも発信して、台湾、ベトナム、アフリカ、日本が原発を輸出している国々の人々とつながっていこうという活動をしています。人が行き来するのが一番の交流になると思います。今日は台湾のみなさんの活動を映画でみることができてとてもよかったです。

夜の部 (参加者31人)

李怡修(リー・イシュウ)さんのお話し:

この映画が撮影された1999年から2004年は原発反対運動の低迷期でした。その前は台湾の民主化運動が盛んで、学生もデモに参加していました。民主化運動、反原発運動の友であった民進党が政府の中に入っていこうとしていた時期でもあります。反体制を掲げていた民進党は1992年~1994年の間、まず体制に入ってから改革を行おうという政治方針に転じ、理念より当選第一を目指すようになりました。結果として、労働運動や環境問題に対する取り組みとは一線を画するかたちとなり、貢寮から一歩引いた立場となったのです。住民が監察院に環境問題を訴えたのは、もう民進党は頼りにできないとさとったからです。台湾は五権分立の国。行政、司法、立法の三権に監察院と試験院(考試院)が加わります。監察院は権限があいまいで、糾弾することはできるけれども判決をくだすことはできません。映画の中でも監察院は台湾電力に勧告することはできますが、命令することはできないというところがでてきます。

2000~2004年、民進党の陳水扁(ちんすいへん)氏が大統領になりました。この時期、台湾では以前にも増してますます経済が最優先される状況となり、原発問題が軽視される傾向が強まりました。第4原発についてはすでに工事が始まっており、メンテナンスについても経費が発生している以上、中途で中止したとしたらこれまでの莫大な投資はどうなるのかという議論です。また、一時的に中止した時期があったからこそ経済が滞ってしまったという考え方の流れができていました。このまま2010年まで反原発活動としてはさらなる低迷期の中にいました。

2011年3月、福島での事故を機に原発は国際的な問題となりました。台湾でも多くの市民が声を上げ始め、反原発についての考え方が活発になってきました。
この世論をうけ、継続という判決がでた第4原発建設について国民投票によりその是非を問うてはどうかと国民党が提案しています。
「国民投票によって決める」というのは一見大変民主主義的であるように見えますが、実は大きな問題点があります。
この国民投票法は2004年に可決されたもので、有権者の2分の1が投票し、そのうちの2分の1の賛成があれば、法律よりも国民の意思決定が有効となる条件のことをさします。
現在台湾には1,800万人の有権者がいますから、そのうちの50%である900万人が投票にいき、さらにそのうちの450万人以上が建設反対へ投票するなら廃止となります。補足として付け加えますと、これまで台湾では公民投票法に基づき、原発問題ではない他のテーマで6回の投票が行われましたが、いずれも投票率が50%に満たず、投票そのものが不成立となっています。問題が鋭いほど、つまり賛成派と反対派が激しく対立するほど、投票率50%を超えない恐れがあると言えます。投票をボイコットする人々がでてくるという可能性も否めませんが、ごく自然な流れとしてみても、50%というハードルはやはり高いものがあります。
ですから、建設に賛成の人は、わざわざ投票に行く必要がありません。投票率が50%に満たなければ国民投票は無効になり、建設は続行されます。建設に賛成な人、建設にとくに関心のない人が投票に行かなければ国民投票自体が無効になります。この国民投票は「原発の是非を問う」のではなく、実質的に「原発反対を問う」というかたちになります。投票率が50%を下回り国民投票自体が無効になった場合、「原発続行」は黙認されます。
これが一見民主的に見える国民投票の大きな問題点です。もし、日本で将来国民投票が行われることになるなら、この点を考慮にいれないと、どんどん政権によってテーマがなしくずしにされかねません。

平野久美子さん:
わたしは1987年に戒厳令が終わって民主化が始まったころから、取材で台湾に通い出しました。
原発については実際に取材したことがないのでコメントできませんが、非常に政治的なカラーが強いということを感じます。
原発問題は環境問題でもあるのに、まさに政治の道具として使われてしまっています。
台湾の原発問題は日本が技術供与しているので私たちとも直結しています。現在、台湾では、「自分は台湾人である」とアイデンティティを持つ人が国民の70%を超えているという統計もでています。
それは純粋に自分の故郷を愛することであり、反原発運動ともつながっています。これを機会にもっともっと台湾のことを知ってほしいと思います。

李怡修(リー・イシュウ)さん:
おっしゃるとおり、若い世代は「わたしは台湾人である」というアイデンティティをもっています。政治と切り離して将来と原発・環境のことを考えてほしい。これはまさに自分は誰なのかという問いです。
福島からの情報は台湾でもたくさん受信されています。「原発がないと経済がだめになる」、「原発は絶対安全だ」と政治家はいっていますが、このセリフはどこの国でも同じようにくりかえされてきました。
自然エネルギー、とくに太陽光エネルギーについて、日本は台湾より一年を通して雨の日が少ないということで、より適しているのではないでしょうか。

アンケートから
たくさんのご回答をいただきありがとうございます。アンケートのなかからご参加くださった方々の声をご紹介します。

➢ 貢寮のみなさんの粘り強く勇気に満ちたすがたに感動しました。原発については日本のみでなく、世界中どこの国でも同じことが繰り返されていると思います。貢寮の映画をとられた崔監督、ありがとう。
➢ 台湾の反原発に関するドキュメンタリーをはじめてみました。また台湾の政治について、社会についても知ることができてよかったです。
➢ 台湾の歴史、政治や国民投票の流れがわかってよかった。初めて知りました。
➢ みなさんのいろんな意見をきくことができてよかったです。反原発の活動を続ける貢寮の人々の心情と努力に感動しました。心の連帯ができた感じです。
➢ 李さんのお話がきけてよかったです。やはり台湾のかたのお話を直接聞くということが一番であると思います。台湾の人々が今どのように考えているのかもっと知りたいです。
➢ 台湾の原発の現状を知り、愕然としました。まったく日本と同じ状況です。政治的な部分がいつもつきまとっている。
➢ どこの国でも同じ状況なのだなあと。メディアも本来の役割をなしていない。
➢ 貢寮の方々の粘り強い運動が日本の沖縄米軍基地への運動とかさなってみえました。原発を輸出し続けるということは、このような苦しみも輸出し続けるということになると思います。
➢ 受付でいただいた補足資料がとても役に立ちました。

追記:

昼・夜の交流カフェの収益と参加者の皆さまから寄せられたカンパは、すべて、『こんにちは貢寮』日本窓口で、長年台湾はじめアジア他の国々と連携した反核活動を続けているノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパンにカンパしました。
(ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン http://japan.nonukesasiaforum.org/

また、昼の部にて、上映に際し不手際がありました。お越しいただいた方に深くお詫び申し上げます。スタッフ一同研鑽を重ねてまいる所存です。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
つきましては、11月2日(土曜日)、陳威志(ダン・ウィジ)さんをゲストとしてお招きし、再上映を予定しております。詳細は追ってお知らせいたします。

「核」は国が違っても人間に同じ問題を提起します。
どうして原発が必要なのか。
日本でこの映画が上映されることになったとき、崔愫欣(チェ・スーシン)監督はこう序文に記しました。

彼らにとって、原発に反対することは、この土地を愛すること、
この海を愛すること、家族を愛すること

【中国語版】月一核電電影節 ──《貢寮你好嗎?》上映會暨交流咖啡記錄

[日本語版の報告はこちら]

翻譯:陳威志

「從地方創造未來・東區廣場」(地域から未来をつくる・ひがし広場)所舉辦的「月一核電專題電影節」(每月一次),於8月3日的放映已進行到第16回。在盛夏之際,下午與晚間兩個場次都有不少民眾前來共襄盛舉。

貢寮你好嗎?

播放影片:《貢寮你好嗎?》崔愫欣導演作品 
     2004年發行 台灣綠色公民行動聯盟

貢寮位在台北的東北方,是一處風光明媚的漁港,當地人多以漁業、養殖業等一級產業維生。

台灣在1970年代,分別於台北市與高雄市近郊興建了核一、核二及核三廠。核一廠與核二廠所使用的機組是與日本的福島第一核電廠1~6號機相同的(BWR);而核三廠則使用加壓水型反應爐(PWR)。另外,核四廠的機組則採用與福島第一核電廠的7、8號機相同的ABWR,該廠是由美國設計、日本製造的機組。負責興建核電廠的「台灣電力公司」是國營企業,從核一到核四,皆是在強調經濟發展的國家政策下所趨動的事業。

2013年6月1日(土) 第14回月1原発映画祭 「夏休みの宿題は終わらない」上映会+交流カフェのご報告

2012年5月12日(土)の「原発ほんまかいな」ではじまった月1原発映画祭は、2年目を迎えました。2年目からは、偶数月の第1土曜日を「本祭」としてこれまでどおりの[映画上映+交流カフェ]、奇数月は、「陰祭」として[スタッフ勉強会+試写会]を行っています。
ということで今回は本祭、「夏休みの宿題は終わらない――英・仏の核燃料再処理施設の周辺に生きる人びとと出会って…」を、制作者の倉岡明子さんを迎えて上映しました。
この映画の制作年は、1989年。撮影されたのは、ちょうど25年前の1988年。倉岡さんは、70年代には、アテネフランセ文化センターで内外の映画紹介や文化事業を実施、映画技術、美学講座を運営してきた名物スタッフだったらしい。映画だけでなく、制作者本人にも興味が湧き、倉岡さんを交流カフェのゲストに招くことになりました。

【昼の部】13:00~15:30

今年は、梅雨の入りが、5月中と早く、お天気が心配されましたが、なんとかもちました。第一部の参加者はスタッフ含めて22人。2時間10分の長いドキュメンタリー映画です。谷中の家には、柔らかなシートはありません。一番奥には、ベンチ状の特等席を設置。映画の舞台がフランスからイギリスに移るところで、休憩を取りました。リフレッシュのために谷中まるに製ほうじ茶や、ミント、レモングラス、レモンバームなどの生ハーブティーを各種用意し、自由に取れるようにしてあります。
倉岡さんは、青森市出身。東京から青森県六ヶ所村に親子3人で通い、3年間かけて記録映画「六ヶ所人間記」(1985年)を撮りました。1984年、六ヶ所村に「核燃料サイクル施設」建設計画が浮上。同様の施設のある、フランスのラ・アーグ、イキリスのセラフィールドの現実を知りたいという思いが募ります。そして、1988年夏、1ヶ月にわたる撮影旅行を敢行。原発や核燃料施設のある村の実態が、そこに住む人の証言で次々に明らかにされます。当時、息子の玄君は4年生。旅を続けながら、次第に子どもから少年に、たくましく成長していく姿も映し出されていました。
15時半に映画が終わった後も、立ち去りがたく、お茶を飲みながら情報交換をしたり、熱心にアンケートを書く人もありました。

【夜の部】17:00~20:30

今回は、夜の部の上映開始は、いつもより30分早い17時。夜の部の参加者はスタッフ含めて36人でした。映画の終わりごろには、倉岡さんも到着。映画終了の拍手を受けた後、倉岡さんにお話をしていただきました。

【倉岡明子さんのお話(概要)】

25年前の、長い映画を見ていただき、ありがとうございました。この映画を撮影したのは、ちょうど25年前の1988年。撮影期間は1ヶ月です。完成した1989年から10年くらい、全国あちこちに持って回り、なるべく多くの人に見てもらえるよう、努力してきました。
前作の、青森県下北半島の付け根にある六ヶ所村の人々を撮った「六ヶ所人間記」は、1985年の公開でした。私は、青森市の出身です。1970年代、六ヶ所村は、むつ小川原開発といって、巨大な石油コンビナート工業地として開発されようとしていました。ここに住むのは、戦後入植し、開墾をしてきた人々です。冬の間は、男たちは家族と離れ出稼ぎに行っていました。そこで残されて暮らす妻たちの話を聞きたいと思っていました。
1981年、青森の湾内から森を抜けると突如巨大な石油のタンク群(国家石油備蓄基地)が現れ、愕然としました。この地で何が起ころうとしているのか、開発の実態を問うべく村人の話を聞かなければと映画製作を決意したのです。東京〜青森市〜六ヶ所村と3年間、通い詰め、映画にしていったのです。
撮影の最中の1984年、六ヶ所村に核燃料サイクル基地建設計画がもちあがり、翌年に北村知事が受け入れを表明しました。

推進/反対と県民は分裂し、県民投票もあったのですが、結局1997年に建設が始まり、施設はできてしまいました。それから何度も試験されたのですが、トラブルが続いて運転はできず、ついに数日前、高レベル放射能廃液のガラス固化に成功したというニュースがありました。この10月くらいに運転を始めるかもしれません。
そういうわけで、「六ヶ所人間記」の後は、英仏にある核燃料再処理施設とそこに暮らす人たちに話を聞きたいと思っていました。
撮影にあたっては、原子力資料情報室の高木仁三郎さんに、パリではマイケル・シュナイダーさんを、英国ではセラフィールドの運動の中心になっていたCOREのジーン・エミリーさんを紹介してもらいました。後は、現地で、紹介から紹介で、行き当たりばったりの取材でしたが、1ヶ月ですばらしい人たちに出会えました。
セラフィールドで、夫を被曝により亡くしたキング夫人は、撮影の半年後に自殺で亡くなりました。「放射能の汚染は、何千年も続くから、絶対阻止しなくてはだめ」と言っていた最後のシーンが胸に迫ります。
フランスのラ・アーグの漁師のジャックや、英国セラフィールドでCOREの運動を続けている、息子さんが白血病を患ったジャニンヌさん、現在一緒に運動しているパートナーのマーチンさんなども、その後日本にいらしてさまざまな運動に参加しています。
私は、昨年12月の衆議院選挙の結果を、とてもまずいと思っています。このままで行くと、原発再稼動の方向に進んでいくでしょう。もっと若い人たち、大学生に、自分のこととして勉強してもらいたい。
70年代、すでにイヴァン・イリイチ(1926-2002 主著に「シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う」1981 など)は、脱学校、脱病院、脱官僚、脱専門家依存を説いています。セルジュ・ラトゥーシュ(1940- 近著に「〈脱成長〉は世界を変えられるか 贈与・幸福・自律の新たな社会」)は脱成長、経済成長なき社会の発展は可能だとしています。
「空から見た地球」という写真展で有名な写真家ヤン・アルテス・ベルトランが日本で取材した番組を、フランスのTVで見ました。賞味期限が過ぎているものをどんどん捨てて行く。どれだけのエネルギーが、食料品をつくり、捨てられるまでに無駄にされているのか、日本の消費社会の実態を告発しているものでした。日本は脱飽食に向かわないといけないと強く思います。
私は、しこしこ勉強しています。原発問題はやはり選挙で表明していくしかないので、投票権を持っている若い人たちに選挙に行ってもらうように、今のまずい状態に対して、なんとか説き伏せ、若い人たちにはたらきかけていくのが、われわれの責任だと思います。7月の参議院選挙の結果次第では、原発再稼動は、現実のものになってしまいますから。

【交流カフェ】

倉岡さんのお話が終わった後、質疑応答は、交流カフェでということになりました。
今回の交流カフェのメニューは、カフェスタッフ特製、10種の具入りパスタサラダ。冷たいワインが進みます。お茶のミント、レモンバーム、レモングラスなどの生ハーブは、「谷中の家」の屋上で採れたものです。

多数出た質問や意見の中から一部を紹介します。
参加者:日本もフランス、イギリスも同じ。貧しい地域が、危険を押し付けられている。都市と農村の構図は、25年前と変わっていない。
参加者:チェルノブイリ事故が1987年。あの教訓が生かされていない。イギリスの牧草地の風景があったが、飯館村を思わせる。
参加者:フランスは、農業国のはずだが、なぜ農民は、追い詰められているのか。
倉岡さん:EUになってから、東欧などから安いものが入ってきて、個人でやっている農家は、壊滅的な打撃を受けている。

このほか、参加者から、「『neoneo meets !!』vol.02「原発」」という映画祭の案内や、参院選を前に「7月の参議院選挙を考えよう」というパンフレットをつくり、カンパで配布しています、との呼びかけがありました。

【参加者からのアンケートより】
倉岡さんの生の声で解説を聞くことができ、貴重な機会でした。
紹介された本、勉強したいと思います。
一人ひとり、個人の方の声を採ったインタビュー。その後、みなさんは、どうなったのでしょう。
原発問題が自然、生活を通して語られていて、強く心に残った。
個人の力でこれだけの取材をされていてすばらしい。 倉岡さん自身がマイクを持ってインタビューされているのが、この映画の魅力。それも息子さんをともなってというところがステキ。
「六ヶ所人間記」を見てみたい。

聞き手の反応もよく、たいへん熱の入ったトークとなりました。選挙前であり、現状を変えるには、選挙が大事なんだということを倉岡さんは、強調していました。そして、個、個人というものを大切にしなければいけないということ。それは、倉岡さんの生き方として貫かれているものなのでしょう。この映画が撮影されたのは、25年前。ずっと変わらずに原発の問題を追い続けてきた倉岡さんの強いメッセージを、参加者それぞれがしっかり受け止め、終了となりました。

◆なお、今回の交流カフェのカンパから経費を差し引いた分は、全額、原子力資料情報室に寄付しましたことをご報告します。(西川)

2013年4月6日(土) 第12回 月一原発映画祭「フタバから遠く離れて」アンコール上映会のご報告

第12回 月1原発映画祭「フタバから遠く離れて」アンコール上映のご報告

~2012年11月、私たちはこの「フタバから遠く離れて」を、谷中コミュニィティーセンターなど3か所で上映しました。たくさんの方が足を運んでくださり、その結果出た収益のもっとも有効な使いみちを検討した結果、この映画をさらに多くの方に観ていただき、考え、語り合うために使おうと決めました~

4月6日(土)いつもの「谷中の家」に舩橋淳監督を迎え、2回の上映と、その間に「監督のトーク」「交流カフェ」をはさむ形で、アンコール上映をしました。
今回初めて午前中からの開催とし、夕方にはすべて終わるスケジュールを組みました。
それは、偶然にもこの夜、前双葉町町長の井戸川克隆さん(この映画にももちろん登場されています)と、前日弁連会長の宇都宮健児さんの対談が渋谷で行われることになったからです。

この日は、低気圧の通過で荒れ模様になるという予報が出ていました。心配して朝を迎えましたが、雲の流れは速いものの、とりあえず開場の10:30に雨粒は落ちていませんでした。長野県や福島県からの参加者も含め30名を迎えて、11:00から1回目の上映が始まりました。

2013年4月6日(土) 月一原発映画祭「フタバから遠く離れて」アンコール上映会 御礼

4/6、舩橋監督を迎えての「フタバから遠く離れて」アンコール上映会が無事終了しました。
荒天予報にもかかわらず大勢の方にお越しいただき、どの回も満員でした。
ご参加、ご協力くださったみなさま、ありがとうございました。

舩橋監督がトークの中で強調されていたのは、
「俯瞰する視点」と「当事者感覚を持つこと」の大切さ。
交流カフェでの話題も必然的に、
福島県内と県外の温度差をどう考えたらよいのか、
外から何ができるかという問題が中心になりました。
熱いディスカッションだったと思います。
茨城から来られた方や福島出身の方が少なからずおられたことで、
具体的なお話をきくこともできました。

詳細はまたレポートをHPにアップいたしますので、今しばらくお待ちください。

◎「フタバから遠く離れて」の今後の首都圏での上映予定は
4/20~26 横浜のシネマ ジャック&ベティ
5/12 練馬・関区民ホール/光が丘区民ホール など。
詳細はhttp://nuclearnation.jp/jp/の上映情報をご覧ください。

さて、月1原発映画祭は次回から2年目に入り、少し形が変わります。
詳細は近日中にお知らせいたしますので、
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

2013年3月2日(土) 福島の子どもたちの現在(いま)、そして未来(これから) ~福島に生きる人々と手を携え、ともに歩くために~ 第11回月1原発映画祭のご報告

3月2日(土)福島市よりフリージャーナリストの藍原寛子氏をお迎えして、「福島の子どもたちの現在(いま)、そして未来(これから)」をテーマに取材映像を見せていただきながら2011.3から現在の取材時のお話を伺いました。

ご紹介

藍原寛子さん 福島市生まれ、元福島民友新聞社記者。マイアミ大学客員研究員。フィリピン大学客員研究員。フリーランスのジャーナリストから国会議員公設秘書を経て、再びフリーランスのジャーナリスト。
現在の仕事
・日経ビジネスオンライン「フクシマの視点」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110708/221371/?RT=nocnt
・ビデオニュース「福島報告」、http://www.videonews.com/fukushima/

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